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Posted by TI-DA at

2013年01月27日

エネルギーシフト



 エネルギ-シフトとは、化石・核エネルギーから、再生可能エネルギーへ
転換することを表す。これは同時に、大量消費型社会から、小規模・分散・
循環型の社会システムへの転換をも意味する。
再生可能エネルギーとは、太陽光、風力、地熱、波力、潮力、中小規模水力、
バイオマスなどを示すが、新エネルギーのメタンハイドレード、シュ―ルガス、
オイルシェールや、自然環境に影響を及ぼすダム水力発電は、通常は含まない。

 再生可能エネルギーの開発は、20年以上前から欧州が先導して行っているが、
政策が先行し試行錯誤を繰り返し、実用化が徐々に実り始めている。
欧州諸国の1次エネルギーの再生可能エネルギー比率は既に10%に達している。
日本では、まだ全エネルギーの3%に過ぎず、再生可能エネルギーの
固定価格買取制度が昨年できたばかりで、研究開発費比率も低く遅れをとっている。


              野村総研資料

 エネルギーシフトが進まない理由は、技術的な問題と、政策的な問題と、経済的な
問題と、社会システム的な問題があり、互いに堂々巡りをしている感がある。
再生可能エネルギーの開発についても、同様の構造的な課題を抱えている。
エネルギー開発は、安心安全なエネルギー供給と、環境を維持するために、
研究開発と投資が行われてきた。
その一方で、再生可能エネルギーの安定供給に対する欠点と、
投資効率についても、その継続性に対する疑問が生じた。
次に、科学技術の進歩により対策が講じられたが、新たな騒音・振動問題や、
自然環境にも影響を与える課題が指摘された。
そして再び、エネルギー政策が議論され、投資・開発が行われる。

このように、日本では思想に芯のない場当たり的な対策が繰り返されてきた。



 エネルギーシフトは、我々の生活の中で、どんな関わりを持つのであろうか。 

経済的な面では、再生可能エネルギーの固定価格買取制度で電気を売ったり、
安いエネルギーを選択することができる。
しかし、現実的には、イニシャルコストをランニングコストで取り戻していくには、
まだ時間が掛かり、ためらう人も多い。

 個人で意識的に行えるエネルギーシフトは、車から徒歩・自転車への転換であろう。
つまり、石油エネルギーから人間エネルギーへのエネルギーシフトである。
私は自称サイクリストで、今月の沖縄での走行距離は300kmである。
市民レースレベルでも、月に1,500kmほど走行する人もいるので、
決して多い距離ではないが、これは毎日片道5km通勤する距離に等しい。



5km以内の自動車通勤者を自転車に転換した場合、
日本全体で、30万t/年のCO2を削減したに等しいという試算もある。
これはカーボン取引の約4億円分に相当する。

 一個人としては、690kg/年のCO2削減の価値よりも、
7,000Kcal/月のエネルギー消費と、670g/月の燃焼脂肪量に相当するため、
健康に寄与する利点の方が大きいかもしれない。

日本は、冬の雪国、真夏の南国、強風の海岸など、自転車に適さない
自然環境も多く、自転車が慣習化されていない地域が多いのも事実だが、
安全に走れる路肩スペースさえない地域が多いのも事実である。



 この個人のエネルギーシフトを実践していくためには、公共投資だけでなく、
地域での取り組み、大量消費型でない街づくり、環境づくりを始める必要がある。

エネルギーシフトは、個人の生活課題を克服し、それを実現するコミュニティの
存在があり、トータル的にそれをサポートするシステムがなければ動き出さない。


  


Posted by Katzu at 21:29Comments(0)原発

2013年01月23日

エコライフ・シンプルライフ・ナチュラルライフ



 地球全体の石油の採掘可能年数が、残り40年と言われるが、
桜の開花後、ガソリン価格もじりじりと値上がりしている現在、
一般の人々は何を期待し、どう対応するのだろう。

○ 新エネルギー開発を期待し、新産業に投資・参加する。
○ 高収入と付加価値の高い生活を求める。
○ デフレ脱却の資金供給政策を期待し、消費支出へと向かう。

しかし、デフレ脱却のカギと言われた団塊世代の支出は、消費に回らなかった。
バブルのはかなさを知り、大震災を経験した賢明な一般の家庭は、
物価が上がれば、まず節約し消費の無駄を省く努力をするだろう。

 エコライフとは、単に節約することでなく、無駄を出さず、
環境に影響を与えることなく、生きるための生活環境を維持することにある。
スマート家電を整えるだけでなく、生活すべてに目を通し
コントロールするというシビアな側面を持つ。

その実践の基本は、第一に家計簿をつけることから始まる。
すると、無駄や余裕や将来の展望も開かれる。
エンゲル係数は、保険税金を除いた消費支出に対する飲食費の割合で、
一般的に生活水準が低いほど、係数値は高いと言われる。
総務省の家計調査によれば、日本は23%で先進国中位の値だが、
開発途上国は50%以上という場合もある。
グルメ国のトルコ、スペインなどは日本より高いのは理解できるが、
外食費率の高い香港、シンガポールはなぜか日本より低い。
一概には言えないが、日本ではエンゲル係数20%が一応の目安になる。



 支出内訳についても、家計調査の平均値との比較で、
自分の消費性向が理解できる。
例えば、ある世帯の支出をグラフ化し特徴をまとめると、
持ち家以外に借家を持ち住居費負担が高く、
交通移動量が多いながら車を持たず、
健康に気を配り、健診、医療費に金がかかり、
光熱費は2世帯分ながら沖縄生活で低減され、
食費は地物中心で外食が減った分、まだ余裕があるという結果になり、
収入が減っても消費を減らす次の目標が定かになる。

エコライフとは、CO2を削減させつつ、生活をコントロールすることである。
本来のエコ減税の施策は、各世帯のCO2削減量を基準に課税すべきである。
 
 仕事のプロセス、金の流れ、人間関係が複雑化してくると、
物事を単純化したいと思い始める。
健康を害し、ストレスがたまり問題を抱えると、
次に起こすのは、無駄な行動の排除か逃避である。
そして、無駄な行動を省いて行くと、
食べ、動き、寝る、という究極のシンプルライフになる。
よほど世俗離れし、健康で幸福でないと辿り着けない。



 自然なものを作り食べる、というナチュラルライフも同じ方向かもしれない。
海外でナチュラリストと自己紹介し、失笑を買ったことがある。
一部の国では、違う意味でとらえられることもある。
日本では、自然愛好家、自然保護に関心のある人々のことである。
自然志向のライフスタイルは、都会と田舎を結ぶ、
週末ナチュラリストという言葉を生んだ。
ナチュラリストとは、自然保護団体、ツアーガイド、山小屋管理人など
職業、活動のために使われる造語でもある。

 ナチュラルライフとは、自然の中で、自然の素材を生活資材、
食料にしながら健康に生きることである。
最近ではオーガニック野菜や健康食品販売、森林住宅開発などにも使用され
造語化され、イメージ化されてきた。
『人と自然にやさしい』という、理論なき紋切り型の表現に日本人は弱い。

現代のナチュラルライフを踏襲しているのは、海人・山人の一部と野人だけだろう。

 

 ヒッピー文化の自然崇拝から生れたナチュラルライフから、個人を中心にした
シンプルライフへ、さらに家庭と社会を結ぶエコライフへと、同じ系譜をたどりながら、
求めるライフスタイルは、経済と社会を巻き込み動いていく。

情報に踊らされない、自分のスタイルが正しいと信じる時代なのかもしれない。

  


Posted by Katzu at 17:55Comments(0)エコ

2013年01月18日

夢の科学と悪魔の発明

 現代の物質社会を豊かにしてきた夢の発明は、
自動車・ロケット・原子力・コンピュータと言われる。
自動車は個人の移動を自由にし、物流革命をもたらした。
ロケットの開発は宇宙開発を進める原動力となり、
高速移動を可能にするジェットへ受け継がれた。
原子力は自然界にない新しいエネルギーで、
人類に輪廻の繁栄をもたらすものであった。はずだった。

その後、原子力は原発事故と核廃棄物の処理問題が起こり、
核と結びついたロケットは安全保障の脅威となり、
CO2を排出する自動車は、温室効果ガスの30%に当たる地球温暖化の
主要因となり、時に凶器にも変貌する。



 100年以上前、フランスのジュール・ヴェルヌは、古典SF小説『悪魔の発明』で、
空中に閃光を放ち、物を破壊する新兵器を描いた。
あたかもそれは、原子爆弾か核弾頭ミサイルであった。
小説では、世界征服の野望はフランスの愛国精神で救われるのだが、
現代では、フランスは原子力推進国で、原子力技術の最先端を行くのは
皮肉であろうか、暗示であったのだろうか。

 エネルギーシフトが叫ばれる現在、過去の発明と開発の反省を踏まえつつ、
多くの科学の夢が産声をあげつつあると感じる。



 NASAの開発したヘリオスは、太陽電池と燃料電池を電源とする無人の
ソーラープレーンで、成層圏を飛び続けるソーラープラット計画の先駆となった。
この開発は前記20世紀型科学開発に対するアンチテーゼでもあり、
成層圏からのデジタル放送だけでなく、地球環境調査の利用にも大いに期待され、
何よりも夢があった。
この機は2003年に墜落してしまったが、その後、幾つかの民間企業が開発を進め、
2010年にイギリスのゼファ―が7日間連続飛行を成功させた。
しかし、それは無人偵察用の軍事目的のプレゼンのためだった。



 JAXAが調査研究を進めている宇宙光発電は、
夢のある究極の再生エネルギー発電である。
そのキーワードとなるのはソーラー発電衛星(SPS)とマイクロ波送電
(Microwave Power Station)でNASAがすでに理論実験を行っている。
                      IEEE Micro Wave Magazine: 2002

 無尽蔵の自然エネルギー、発電量、輸送コスト、安定供給、環境への影響など、
どれをとってもバラ色で、宇宙開発にも、経済発展にも明るい未来が描ける。

 一方で、宇宙開発は軍事目的で進歩してきた一面もある。
太平洋戦争当時の日本のロケット技術は、ドイツとの技術共有により、
アメリカ、ロシアをしのいでいた。



ヒトラーの考案した悪魔の発明には、ヘリコプター、原子爆弾、ミサイル、毒ガス、
スペースシャトルの原型となった宇宙爆撃機などがあるが、
いずれも科学の最先端をいくものであった。
その中には、宇宙空間で太陽エネルギーを巨大宇宙ステーションに集め、
地上に照射するという、現在の宇宙光発電のような兵器もあった。

 新エネルギーの開発は、深海のメタンハイドレードの掘削にしても、
オイルシェール、シェールガスの採取にしても、環境破壊が懸念される中で、
科学技術の進展と安全性の確保が最優先課題である。

科学の進歩、軍事転用、経済発展は連鎖して進むことを、
倫理規定だけでなく、科学技術者自身、自覚すべきだろう。

 転じて一般の人々は、原発事故の現実に遭遇しても、
原発反対派から過激な集団が現れることなく、
このエネルギー国難にあっても、
尖閣諸島の油田開発を叫ぶ人がいない日本は、
なんと大人しく平和な国なのだろう。

  


Posted by Katzu at 12:11Comments(0)原発

2013年01月13日

忘れえぬ街 その5

商農工住と変化する港町酒田



 山形県酒田市は、江戸時代に出羽内陸地方からの最上川の船運と、
京から蝦夷への北前船が行きかう交通の要所であった。
その交易による港町は、西の堺に対し、東の酒田とまで呼ばれた。

庄内平野は、最上川と鳥海山、月山の水と、日本一の地主と言われた
本間家の水田により、豊かな農村を築いてきた。
戦後の農地改革により、さらに米作の生産性は向上し、
戦後の飢餓時代の食糧事情を支えてきた。

 昭和40年代の高度成長時代には、5万トン岸壁の酒田北港や
工業団地が造成され、日本海有数の工業都市へと変貌しつつあった。
住軽アルミの立地や、電子産業の進出が相次ぎ、
本間ゴルフ、前田製管などの全国有数の地元企業も育った。
しかし、工業はオイルショックにより衰退し、撤退する企業も増えて行く。

 その高度成長時代が終焉した頃の1976年に、酒田大火が起きた。
大火の知らせは、帰省する際の上野駅の新聞で知った。
市内の商店街22.5haを焼失する大火であった。



火は日本海からの風に乗って広がったが、北の寺町で方向を変え、
火の勢いが東の新井田川の方向に進んで行ったという。
この周辺は社寺の密集地帯であり、広いオープンスペースと大木が
防火の役目を果たしたのであろうが、
今でも地元の人と大火の話をするとこの御利益の話になる。



 酒田の再開発は官民一体となり、県内のコンサルがかき集められ、
防災・緑道計画をコンセプトに、最短の2年間で街が完成した。
マニュアル通り進めると、このようなスピードで街はできないが、街の再興を願う
強い気持ちと、超法規的なものを認める行政の裁量が、それを可能にした。
阪神淡路大震災では、これを参考に比較的早期に完成できたが、
今回の東日本大震災では被災地が広すぎ、足並みをそろえる強力な力もなく、
まもなく2年がすぎようとしている。

 震災復興区画整理事業の後、中町商店街の復興と再開発事業に関わったのは、
中央のある事務所だったが、当時のモール計画としては高い評価を得た。
しかし、その後の新住宅地の開発による人の重心の移動が、
商店街の衰退につながり、交通の不便を助長する結果になってしまった。

復興市街地の境界にある徳念寺の住職と話をしながら、
雪の降る対照的な新旧の街を見ていると、変化し続ける
街の歴史が頭の中を駆け巡って行った。



 昔からこの街が好きで、海釣りに来たり、鳥海山に登ったり、
ラーメンを食いに来たりと、毎週のように来ていた時期があった。
その中でも、冬の田んぼに浮かぶ防風林のある集落の風景は、
なぜか自分の心象風景になっていた。
私の祖父は酒田出身だということは聞いていたが、
今まで興味もなく、どこの集落かも知らなかった。
正月に本家に行った時に、初めてその場所を聞いて納得した。
それは、酒田市の東の郊外の土崎という集落だった。
幹線道路から見ると、思い描いていた通り、
地吹雪の中から、駅舎と農村集落が浮かび上がってきた。



羽越本線の東酒田駅の隣の集落で、昭和初期に土地の有力者であった大伯父は、
駅を自分の家の前に引いたという話も、まんざら嘘ではないようだ。
現在も駅前には3軒の家が立っているだけで、周りには他の集落はない。
庄内地方には、平重盛の家来が落人となり、小松姓を名乗り移り住んだという
伝説を持つ集落もあり、自分のルーツさがしにも興味が湧いてくる。

 その後の酒田は、東北大震災の時は日本海側からの中継基地になり、
交通の大動脈となり、現在も運輸業のつながりを保っている。
まちの姿も、商農工住と変化しながら、またルーツに戻り、
現在は商業・観光の街を目指している。
  


Posted by Katzu at 17:09Comments(0)忘れえぬ街

2013年01月09日

変わる交通環境

 交通環境の変化は、交通技術の発達や、交通インフラの整備だけに
よるものではない。特に、公共交通を取り巻く環境は、
近年の経済情勢や利用者の変化により、大きく変わろうとしている。

 経済のグローバル化、低コスト化競争により、
運輸関連の企業戦略も変わりつつあり、特に航空業界は、
LCCのもたらした低廉化の競争により、激しさを増している。
羽田、成田、福岡各空港に次いで発着便の多い那覇空港には、
現在5社のLCCが参入している。
那覇-成田便は3社がしのぎを削る。



 一方、都市間交通は、民営化したJRの低廉化が進まない内に、
低価格の高速バスの参入が顕著になった。
その結果、海外は成田空港から、国内の遠距離は羽田から地方空港へ、
中距離はJR、近距離はバスと自家用車という交通利用のパターンが崩れ始めた。

 大量に、早く、安全に、快適に、が交通の4大原則であるが、
最近は地球環境問題により『エコ』の要素が加わった。
さらに、少子高齢化、デフレ経済により、『大量に』が、
個人のニーズに合わせ多様化し、むしろ『安価に』が交通の重要な要素になった。

 例えば、那覇―成田間のLCCは3,000~6,000円、東京山形間の高速バスは、
3,500~5,500円であり、成田-東京間を1,000円とすると、
那覇―山形間は、組合わせにより1万円で移動可能となった。
これは、大手航空会社の最安値の半額以下、
あるいは、東京までの新幹線の運賃と同額となる。
バスを待つ間に、体を温めるために飲んだ飲代と、
高速バス代が同じというおかしな時代になった。



 課題となるのは、定時運行、安全性の確保、搭乗時間の短縮、
切符確保の保証などがあるが、ルールとリスクを理解し利用すれば、
公共交通としての条件をクリアしている。
数年後、数社に淘汰され価格も落ち着くだろうが、
この交通機関の選択肢は、確実に定着するだろう。

 交通環境の変化は、ハードなシステムだけでなく、
移動中の客室環境にも及んだ。
交通のグローバル化、交通ビジネスの多様化は、利用客層の変化をもたらした。
外資系のLCCは、多くの海外旅行者を運んでくる。
国内旅行客は、低コスト化により、若者と幼児を含む家族連れが増えた。
LCCの機内は、日本人の赤ちゃんのとなりに、回教徒のひげおじさんが座るような、
生きたグローバルな社会が垣間見れるのである。



 公共交通機関の限られた空間では、様々な人種の特徴が明らかになる。
時間に厳しい日本のビジネスマンは、まだLCCを利用しない。
現在は、時間に融通が効く低所得者層が利用する傾向にあり、
旅慣れた人には騒々しく感じる。
10年前にLCCが一般化した欧米の様に、ビジネスマンが手軽に利用できる環境が
整うまでには、まだ時間がかかりそうだ。

欧州では、LCCがライフスタイルを変えたとさえ言われる。
海外の別荘を安く買い、1国の宰相でさえ、
週末は家族とLCCで移動する、というスタイルが定着した。
LCCに偏見を持つ人・企業は、グローバル化の波に既に乗り遅れている。
最近の高速バスも高級化し、列車より温かく静かで、
かつての狭く、つらいイメージはなく、列車より快適と感じる人もいるだろう。

自由な交通の選択肢の多様さが、その国の交通の成熟度を示す。

 日本人はいつから公共の場で、他人との関わりを拒むようになったのだろう。
他人を思いやる公共のしきたりは、欧米から理解され、
発展途上国の一部から絶賛されても、多くの国では理解されない。



 昨年、旅行中のラオスのバスの中で、地元の青年が車酔いで苦しんでいた。
一応声はかけたが、死にそうでもないし、隣の女性が介護していたので
その様子を静観していた。その後、見兼ねた一部の欧米の観光客が、
バスを止めてと騒ぎ出し、運転手に懇願した。
バスは無情に走り続けたが、運転手はバスのドアを開け、
彼に風の当たるステップを指し、彼は移動した。
それから10時間後、バスは何もなかったかのように、ビエンチャンに着いた。

他人と関わりたくない日本人、オーバーアクション気味の外国の観光客、
冷たそうだが毅然とした態度の地元運転手。ボランティアと過度のお節介、
自立と援助、規則と機転、様々な違いを教えてくれた。
これが、日本だったらどうなったことだろう。

恐らく彼は誰にも干渉されず、一人苦しみ、結局、同じ結果になったかもしれない。
しかし、彼は多くの人と接し、多くのことを体験し、知ったことだろう。

これから日本人も、自分と違う環境で育った人間と、公共の場で接するうちに、
車内環境も少しづつ変わって行くことだろう。



狭く暗く、一人づつ隔離された夜行バスの中で、そんなことを考えていた。
  


Posted by Katzu at 16:27Comments(0)ビジネス環境

2013年01月05日

暖かい雪と氷結する雪



 年末に帰った郷里は、例年より雪は少なく、雨が降った。
この時期、雪のない正月は何度かあったが、雨の降った記憶はない。
最近の雪は、いわゆるドカ雪と呼ばれる湿気の多い重い雪が多く、
踏み込めるとキュッと音のする粉雪は、
高山に行かない限り、街中ではあまり体験できなくなった。
絞ると水のでる雪はあっても、雪玉を握れないほどの
乾いて冷たい雪は少なくなった。



降雪の条件をまとめると、
1、-30℃以下のシベリア寒気団が南下する。
2、湿気を含んだ空気が上昇、昇華し氷晶核があると凝結する。
3、高度1500m付近で-5℃以下、地上付近では気温4℃以下、
  湿度60%以下の気象条件が整う。

雪の降るメカニズムは、このような条件がそろい、初めて雪が降る。


         新潟地方気象台資料

 正月の山形の最高気温は3℃、最低気温は-3℃で
降雪気温に達しているが、地上の湿度が高く、雨が降る条件になっていた。
乾燥注意報が出やすい時期に関わらず、年末は最小湿度50%以上、
実効湿度は80%と高かった。


         山形地方気象台

 近年、このような積雪の条件も変わりつつある。
雪の生成には、氷晶の核となる微粒子が必要であるが、
中国からの黄砂などにより、氷結する温度と落下速度が変わった。
また、海流の変化、都市化などにより地表温度が上がる一方で、
地表面付近の湿度も変化する傾向にある。
その原因として、地球温暖化と暖流の北上が影響している。

雪自体も暖かくなったと感じる。
水は0℃で結氷するが、雪自体の温度は大気温に近似していく。
雪が暖かくなったと感じるのは、雪の湿度が高いことに加え、
平均気温が高くなったせいかもしれない。

 一方、偏西風の蛇行により、全国的に風が強まる傾向が強い。
先週の沖縄では、最低気温15℃で、北東の風が吹いて、
ダウンが必要なほど寒く感じた。

北国では、星が瞬く寒い夜というイメージがあるが、最近は、
風の強い吹雪が多く、体感温度が低く感じる傾向にある。

昨日からシベリア寒気団の南下により、冬型の気圧配置となり
夕方から風雪が強まった。
積雪深も市内で10㎝となり、最低気温は-6℃まで下がり、
終日氷点下となり、消えかけた雪は氷結した。



静かな夜に粉雪(パウダースノー)が降り注ぐ気象条件は、
近年は生まれにくい状況にある。

 総体的に、1年を通じて平均気温・湿度は高くなりつつも、
低温・風雪を伴う寒気団は繰り返し襲来し、大雪も増える傾向にある。
各地域の降雪の特徴も変化し、大雪の積雪深、出現回数は、
上越地方では減り、その東側では増加傾向にある。


         寒地土木研究所資料
  


Posted by Katzu at 01:26Comments(0)街の環境