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Posted by TI-DA at

2013年10月25日

未来の環境交通システム

 豊かな都市生活の追及は、無駄なエネルギーを発散させ、
都市のヒートアイランド現象を誘発しながら、ひいては
今夏の太平洋ベルト地帯の猛夏を助長させた。

20世紀のエネルギーは、1,人口、2,都市建物、3,工場、4,車
の増加により、CO2とともに大気中に放出され続けた。

これ以上地球環境の改変を助長させない方法は、
科学技術の革新と、発生源となる母数の減少と、
無駄な贅沢を求めない生活の浸透しかない。



いずれもたやすくはないが、車に関して今できる対策は、都市施策として行う
公共交通機関の再生と、環境に配慮した新しい交通システムの創生であろう。


 日本の交通技術は、高速鉄道技術、車の省エネ技術などで先んじているが、
交通システムは欧米を追随して来たためにまだ発展途上にある。



都市部から車を排除し公共交通機関に転換する施策や、二輪車の通行レーンの実施から、
自転車を交通機関として認識できない個人の意識に至るまで、形式的で曖昧なままなのである。
それは、戦後日本が車を中心とした産業構造を築き、個の豊かさを求める社会を築いてきたからである。



 バブル時代に普及した日本の新交通システムは、都市型中量輸送機関のことで
技術的に特化しているが、機能的には人を安全に運ぶオーソドックな交通機関である。
あのLRTでさえ、低床車両を路面電車に採用しただけのものと勘違いしたり、
観光として乗降客数が伸びることを前提に考えている向きもある。



むしろ、新しいインフラを造るより、列車に自転車を持ち込み、目的地まで専用レーンで
到達できるような、個と公共を結びつけるシステムを試行すべきなのである。



 将来の交通システムは、広義のモーダルシフト(公共交通転換)と
個人の高機能交通機関の組み合わせにより行われるだろう。


貨物車を直接貨物列車に積むピギーバッグと言われるシステムがあるが、
個人のビークルを公共交通機関により中長距離移動させるシステムが、今後有望視される。



本来のハイブリッドカーやEV(電気自動車)など低燃費カーの開発は、
少子高齢化社会に対応した個人のミニビークル開発に向けられるべきで、
今後は連結輸送、集団自動運転などにも応用される。



将来の交通機関というと、人工知能を持った自動車の開発だけが注目されるが、
むしろ新しい交通システムが必要になる。

Volvoの開発しているSRTREロードトレインの発想は、個の交通機能を高め、
母数を減らし、公共交通に近づけるモーダルシフトに追随したもので、
車メーカーが生き残るためのものでもある。
SRTRE(Safe Road Trains For The Environment)  


Posted by Katzu at 00:09Comments(1)街の環境

2013年10月20日

美観地区の裏通り

 伝統的建造物群保存地区(以下伝建地区)は、1975年に指定制度ができて以来、
全国では宮城、山形、東京、神奈川、静岡を除く41県の104地区で指定されている。
この指定により、地区は本来の街並み保全のみならず、多くの地区は観光客の増加で
新たな観光収入を得るようになった。



本来は個人の建築物保存と街並み景観保全とは表裏一体の関係があるが、現実的に
景観保全を都市計画上で行うには、より詳細の建築規制や地区指定制度を行う必要があり、
京都市の市街地景観整備のように、建物の高さ規制、意匠規制や個人に対する
支援制度まで踏み込まなければならない。



 80年代当時、関西圏の街並み保全で最も成功した事例は、倉敷市の美観地区であった。
倉敷川畔の倉庫群、大原美術館、アイビースクエアなどの個々のパーツと全体のバランスが
すばらしく、美しい街並みと観光の魅力にあふれた、憧れよりも嫉妬さえ感じる街であった。

30年後の街の印象はどうであろうか。

外国人観光客が増え、お土産屋、茶屋、雑貨店、画廊、個人の美術館が増えた。




景観整備を目標としながら、電線電柱の地中化が進まない。




表通りの隆盛に比べ、再築できない通路に面する個人宅の廃墟や裏通りの空家が目立つ。




街並みはイメージから造られていく。

倉敷美観地区は、大原美術館という文化芸術の象徴と、アイビーという洒落たイメージが先行した。
あとでアイビーとはツタの意味だと知り、その建物も古くなりようやくその落ちつきを取り戻した。



 街づくりは、観光地として発展することだけを目指すものではない。
経済的に街が豊かになるのは、地域に生活する人のためでもある。



地区に隣接する南側を歩くと、昭和の香りのする都市整備から取り残された下町があった。
本来はこの居住空間を長く住みやすいものにすることが、あるべきまちづくりの姿であると思う。



美観地区と駅を結ぶ地区外の商店街の寂しい姿は、観光の街の影の部分を表している。




 山口県の萩は、吉田松陰や高杉晋作、伊藤博文ら、幕末から明治にかけての偉人を多く
輩出した城下町で、現在の人口は5万人で、市町村合併後も減り続け、過疎化が進んでいる。
旧市内には、堀内、平安古、浜崎の各伝建地区があり、まち全体が観光地でもある。



地区の景観整備は、高度制限のみならず、木の伐採、家屋の色彩、交通標識にも配慮を
するほどの意匠の統一が成されているが、修復中の旧家も多い。



建物の維持修繕には補助金以上の多くの手間と、少子高齢化により家を継続する困難さが加わる。




 沖縄県竹富島の伝建地区では、観光客の増加に伴い、道路整備や宿泊施設の拡充の声も聞かれる。
サンゴ砂の白い道は美しいが、転べば怪我する上に、毎年、砂のオーバーレイを重ねるうちに
道路が高くなり、排水機能のない道路から宅地側に水がたまる例も見られる。



防災・防犯はじめ各種公共機能を維持しながら、この美しい島の景観を守るには、
伝統を重んじる島民の努力なしでは決して継続できない。

 このように、文化庁の指定を受けた伝統的建造物であっても、街の景観保全と生活の維持、
根本的なまちづくりとは別のもので、観光と過疎のはざまで街は動いていく。  


Posted by Katzu at 17:58Comments(0)まちづくり

2013年10月16日

台風のまちづくり



 先週の台風23号は八重山地方を北上し、直後に発生した24号も後に迫っていた。
当初24号が23号を追い越すほどの速度があり、各台風予報は、一時混乱が生じていた。
その台風の通過と行方を石垣島で見守り、まちの様子を観察していた。



 沖縄のまちづくりや建築デザインは、風を抜きにして考えられない。
集落の配置は、背後の丘陵を盾に、山の南西方向に発達した。
その理由は、忌み嫌う冬の北東の風を避けるとともに、台風の
反時計回りの強風を最小限に避けるためでもある。

強風を避ける工夫は、街区の形状にも表れている。
円を基調に風の道を造り、角面を曲面にし、正面に風を受けない工夫がなされている。
不整形な三叉路が多いのはこのためで、風を正面に受ける箇所には、
魔除けの石厳當が設けられる。近世以降の都市はこの限りではないが、
都市生活の中では、風の方向と強さを意識する機会は、本土に比べはるかに多い。
広い駐車場からは車が消え、断続的に雨が降っても、傘を手にする人はいない。



 住民の防災意識と習慣はどうであろうか。
石垣市内は南風が強まり、次の日の午前中のフェリー、航空機、バスの運行が
申し合せたようにすべて欠航となり、学校も休校となった。
台風接近の伝達手段は、各メディアにより得られるが、
それをいよいよと実感したのは、市の広報車だった。



街は人の姿もまばらで、コンビニの商品運搬だけが忙しそうだった。
他のほとんどの店は、早目に閉店していた。



シャッターのない店舗では、飛翔物の衝突に備え、防護ネットを張る店が多かった。
個人の住宅では、雨戸付の窓が多く、そのほとんどは閉じられた。



夕方からは南風は東風に変わり、断続的に雨が強まり、予報通り暴風圏に入った。
宿は雨戸が壊れている古民家で、夜中の風がうるさく、ガタつく窓に割り箸をはめ込んでしのいだ。



早朝、外に出ると、隣の古い住宅は戸が外れ、道路の反対側に飛んできていた。
まだ、街は動き出していないが、限定的に停電した電線を復旧する工事が始まっていた。
コンビニだけが、手動でドアが半分開けられた。

まちの習慣は、家の前のゴミや枝葉のそうじから始まる。
雪国の雪かきと同じ習慣なのである。



 台風は瞬間最大風速40mを記録していた。
年に数度の中程度の台風で、街はいつもの生活に戻った。
台風後も風は断続的に強く、ようやく最終便で那覇に戻ることができた。

次の日は、台風25号の通過で再び欠航となったようだが、
翌日の名護の海は意外に静かで、晴れ間が見えた。
場所の違いはあれ、生きた台風と、天気の変動の速さに驚かされた1週間であった。



 本日、本土に台風26号が接近する。
今年最大とは言え、同程度の風雨が襲った場合、どれだけの被害がでるのか不安になる。
特に古い木造家屋は、台風に遭遇する頻度が少ないだけに注意が必要である。

 台風のまちづくりは、何よりも雨水排水整備と強風対策が第一で、
情報伝達システムの構築と早い行動、防災習慣が災害の危険度を低くする。
危険なのは飛翔物で、個人の看板を始め、行政側は強い街路樹の選定や
剪定による管理とともに、強度確認などが必要であると感じる。  


Posted by Katzu at 00:56Comments(0)まちづくり

2013年10月08日

ツーリズムのトレンド

ツーリズムは環境ツーリズムとブラックツーリズムという、新しい観光のスタイルができつつある。

 現在、石垣島のダイビングショップは100以上ある。 これだけのショップが集積する島は
世界中のどこをさがしてもない。ビジネスとして成り立つのかはなはだ疑問でもあり、
海中にはかつてほどの魅力があるとは到底思えない。



スポーツとして発展したダイビングは、インストラクターの安定収入の確保が課題であった。
最大手団体のPADIは、安易な講習修了者増産に切り替えたため、インストラクターの数が
増大したことも、ツアーが増えた原因の一つである。
ダイビングは海中の環境が命であるため、海に致命的なダメージを与える方向には行かないが、
過剰なサービス精神とダイバーの増大は、海の環境を良くする方向には向かわない。

一方で手軽な家族・団体向けのアウトドアツアーも人気となり、石垣島ではカヤックツアーは50、
シュノーケルツアーは45もの会社がある。

 時代は、ただ見て遊ぶスタイルから、体験型のツアーが増え、エコツーリズムが発生する。
環境省ではエコツーリズムの概念を、
『自然環境や歴史文化を対象とし、それらを体験し、学ぶとともに、対象となる地域の自然環境や
歴史文化の保全に責任を持つ観光のありかた』、と定義している。
自然環境との共生を前提に、学習を通じた活動を行うNPO法人の数も増えている。
石垣島ではエコツアーとうたい、集客する会社・団体は現在30もある。



なかには良心的に環境教育を織り込んだツアーや、地域活動に根差したものもあるが、
エコツーリズムの課題と限界も見えてきた。
与えるツアーである場合、受け手の興味が持続しないことがある。
一度マングローブツアーを経験し知識を得ると、慶佐次川では、
前に浦内川で体験したからいい、という人も現れる。
観光客と環境を仲立ちする人の間に、ビジネスとして成立させることが観光ビジネスの宿命であり、
その多くは、環境を切り売りすることで成り立つことに、大きな矛盾を抱えている。

 環境ツーリズムとは、観光客が自分の興味を進んで環境の中に求め、管理者・関係者は
その自然・都市環境を整えることで、観光客を受け入れ、地域全体を相対的に活性化させ、
地域経済に反映させることである。
提供する側の目標は、観光客を自然と街に『もてなしの心』で迎える環境を整えることである。
最近のトレンドでもあるスポーツイベントや、アウトドアイベント、まち歩き、寺社巡り、星空観察、
遺跡・生物探し、ボランティア活動なども、広い意味で環境ツーリズムとしてとらえることができる。
『何もないところが好き』という感性もその一つかもしれない。
これには一定のルール作りと、観光客自身が教養と知識を蓄え、自発的に活動することも必要になる。
専門的なガイドは必ずしも必要としない。



 ブラックツーリズムとは、チェルノブイリの被災地を観光地化する計画からそう呼ばれるようになった。
海外には戦争博物館や捕虜収容所などが観光地として公開されているものも多く、
歴史の真実を伝える重要な観光資源となっている。

観光客は、楽しむ・遊ぶだけでは飽き足らず、実物に触れ、真実を知り、教養を身につけ
総合的な人間力を高める方向に経験を重ねていく。
人の悲しみや苦しみは観光にはそぐわない面もあるが、
真実を知る手段としては、最も実証的かつ論理的な方法である。
東日本大震災の各被災地では、被災建物の保存や復興記念館の創設に様々な意見があるが、
伝え残したものが、防災に結びついたことが大きな教訓として残った事実がある。

観光地がテーマパークや公園や世界遺産などに限定されてくると、
『行った、見た、おいしかった。』だけのツアーや、
単一的な消費型レジャーにもあき、自分で新しい何かを求めたくなる。

今回の西九州の訪問は、日本の近代化の犠牲になった者たちを巡るブラックツーリズムでもあった。

知覧特攻平和館
 映画『風立ちぬ』に共感した者なら、その戦争の真実に出会うと、
当時の日本人としての意識や戦争の重みに思いを詰まらせることであろう。
この施設を世界遺産に、という運動もあるが、たった一つ欠けたものがある。
それは、特攻された側の視点である。
戦争の愚かさと死んでいった者の魂を鎮めるためには、両者の対等な認識が必要であろう。




水俣病資料館
 日本の環境問題、工業の発展、原発問題、に興味を持つ者は一度訪れ、
国や大企業の環境対策がどのように行われてきたか、正しい認識を持つべきであろう。
隣接の広域公園水俣エコパークは環境と健康をテーマに、障がい者の働く公園としても注目されている。




雲仙岳災害記念館
 自然災害の頻発する国で、災害に向きあい、それを体験学習する場としてジオパークは意味がある。
地球環境、地球物理、地質地学に興味を持つ者だけでなく、多くの人が防災の知識を持つべきである。




軍艦島
 日本の工業技術発展の優れた歴史の断面を見ることができる。
工業ビジネスが誤った方向に進むと、人間性を無視した陰惨な歴史を生み出すことも知るべきである。
世界遺産登録前にやるべきことは、まだまだたくさんある。




長崎原爆資料館
 初めて訪れる人は、日本人として知っておくべき原子爆弾の恐怖を知らなすぎる自身を恥じるだろう。
ひとつひとつの話に聞き入ると、悲しみと絶望の中から明るい未来が見えてくるはずだ。
今の原発問題を考える前に大切なことを教えてくれる。



 本来これらの施設を見学するには大きな博物館・美術館と同様に半日は必要であろう。
しかし、多くを理解するには、時間的にも体力的にも感情を維持するのも大変で疲れがドッとくる。
閲覧客の多くはシニア層であるが、最近は若者や家族連れも目立つようになった。
それは取りも直さず、映画で感動する以上の感情を持つこと自体が、ツーリズムである証拠なのである。

ブラックツーリズムは言葉から受ける印象は良くないが、教養を高め、
人生の教訓としながら、本物を求める新しい大人の旅の形でもある。  


Posted by Katzu at 18:47Comments(0)ビジネス環境

2013年10月04日

活火山のまちづくり



 最近の桜島の噴火活動は2010年以降活発化し、噴煙が5000mまで到達した8月18日を
ピークに10月3日時点で、今年694回の爆発を確認した。


                                      詳細クリック

先月訪れた際も、約20分おきに大きな噴煙が上がっていた。
鹿児島市内には、2週間前の降灰が残り、篤姫の銅像前にも
水の流れ集まる個所には黒い筋状の灰が残っていた。



 桜島の爆発による、9月の鹿児島市の降灰量は、906g/㎡を記録した。
1985年には5000gを超えたこともあり、これを厚さに換算すると、
1cmに満たないが、湿ると10kg/㎡相当になる。
20cmも積もれば、木造住宅は崩壊することになる。
火山灰である関東ローム層が10mにも達することを考えると、
日本という国は、危うい大地にしがみついて成り立っているのである。



 桜島に渡ると、いかに降灰が日々の生活に与える影響が大きいかがよくわかる。
雨が降る毎に、ごみ収集車と同様に、清掃車と作業員が雨水桝の灰を上げる作業が日課となる。
民家の屋根も降灰により排水管が詰まるため、雨どいのない屋根を多く見かける。



雪と火山灰は廃棄物として共通しているが、雪国では克雪・利雪という言葉があるように、
火山のある地域では、克灰・利灰という言葉が、まちづくりのキーワードになっている。



漁師が潮汐を、農民が雨に気を配るように、火山のまちでは風向きが重要となるため、
テレビでは必ず風向き予報がでる。

噴火災害の歴史をひも解けば、過去に起きた4つの大きな噴火による溶岩流の分布と
現在のまちの成長を重ねると、一つの特徴が見えてくる。



大規模な噴火は約100年のペースで繰り返されてきた。
溶岩台地は徐々に植物が繁茂し始め、砂防事業が繰り返され、林になるまで50年ほどかかる。
その後、人々が噴火の恐怖を忘れ再び戻り始め、まちができるまで100年がかかる。
桜島のまちの歴史は、この輪廻を繰り返してきたともいえる。



 熊本から有明海を渡り島原半島を望むと、壮大な悲劇の舞台となった雲仙普賢岳の
姿が生々しく目に飛び込んでくる。
今なお噴煙を上げる雲仙普賢岳と、山頂から延びる溶岩と土石流によりできた台地が、
なだらかな放物線を描き、海に到達した歴史の姿がよくわかる。

2009年に島原半島一帯は、日本で初めて地球科学的な自然遺産として世界ジオパークに認定された。
島原の人々は、繰り返される災害と向き合い、山の伏流水や温泉、有明海の幸を利用しながら
『活火山と人との共生』をテーマに観光と防災のまちづくりを進めている。



雲仙岳災害記念会館は、雲仙岳の土石流を浚渫した土砂を用いた埋立地に建設された。
この施設は、1990年の平成の噴火から火砕流とその後の土石流まで、
記録に残し、災害を疑似体験できる教育の場でもある。



この近くから、土石流対策として大石や大木を止めるスリットダムと言われるハの字型の
導流堤が、幾重にも造られている様子が確認できる。



 有明海をバックに、東日本大震災の女川の津波の高さが記されたパネルを重ね見ると、
日本全国どこでも災害の起きる可能性のあることを思い起こさせてくれる。



 防災やまちづくりについて、火山のあるまちから学ぶべきことは多い。
このような教訓を活かせず、30年後にオールドタウンを造ってしまい、
大震災に成す術もなかった我々の責務は大きい。
その反省と経験から、30年後の震災復興団地の姿を思い描くシナリオは、
果たして、想定されているのだろうか。  


Posted by Katzu at 19:13Comments(0)まちづくり