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2018年04月21日

3.11の花蓮

 3月11日、台湾を左回りに一周し花蓮市に着いた。東日本大震災時には台湾から多くの義援金が寄せられ、その後、台南地震や今回の花蓮地震には日本から支援と募金が呼びかけられた。



地元では震災の中間報告が行われ、台北でも学生による震災慰霊が行われていた。志し同じく、自転車で感謝と慰霊の意思を伝え台湾を一周する日本人がニュースになっていた。花蓮には過去3度訪れお世話になったこともあり、気がかりであった。

 2月6日、マグニチュード6.4、震度7の地震が起きた。前後してペルー沖、アラスカ、ジャワ、パプアニューギニアの大地震が連続し、太平洋のRing Of Fireが活発化していた。この海岸北部は世界最大の海底山脈の断崖とも言われ、三陸地域の津波や平野部での液状化なども危惧された。
その都市型地震の被害はどの程度だったのだろう。




地震直後の災害対策の優先順序は、

1.人命救助、避難施設の確保

2.火災、電気、ガス漏洩の確認

3.交通・情報施設の確認

 実際は各管理部署により同時に進行する。
都市インフラの被害状況をいち早く知る方法は、構造物のジョイント部をチェックすることである。特に橋梁のジョイント部は地盤調査、構造計算、交通条件などの厳しい検証をクリアした土木構造物の中にあって、都市交通の集中する弱点部でもある。橋梁の伸縮装置、沓座拡幅、落橋防止などの構造設計を行った者は、その重要性に気付いているはずだ。
地震発生直後、花蓮大橋の車道は路面が隆起したと報じられた。市内の国道はすでに回復しているが、林森路の歩道橋台部の沓座は大きく損傷し歩道は通行止めになっていた。




目立った歩道部の段差は、埋設物が混在し歪みが集中する交差点部と建物出入口付近に多く見られる。歩道は、ブロック舗装 ⇒ インターロッキング舗装 ⇒ アスファルト舗装の順で破壊が進む。皮肉にも、最も単価の高い自然石ブロック舗装は一番先に壊れ、裸足同様で飛び出した避難者には危険である。




 南に100km離れた瑞穂郷では地震の被害はなかった。花蓮駅前に立つと、依然の街の姿と変わらない。サイクルショップで被害状況を聞くと、店舗には全く影響がなく、むしろ観光客が減ったことが痛いと嘆いていた。以前お世話になった日本人が経営する馨憶精緻民宿は、ほとんど影響なく営業していた。主人の話では、突き上げ、横揺れがほぼ同時に起きたが、それが本震だとわからず、さらに大きな地震の情報が入り、余震の不安が強く眠れぬ夜を過ごしたと語った。予知に関しては日本同様に情報が錯綜し、、台湾気象局の地震予知センターの立場も厳しい。




 台湾では日本統治時代の建造物が多く残され、良く整備・維持されている。花蓮の松園別館は戦時中に作られた将校、士官の招待所で、70年以上経った現在も琉球松に囲まれ落ち着いた観光施設である。



庭の管理人から日本語で声を掛けられ、地震の様子を聞くと「ここは日本が作ったので大丈夫。」とテレビのCMのような答えが返ってきた。彼は、むしろ地下壕の方を今の日本人に見て欲しいと言った。そこにはここから旅立った特攻隊員の資料が展示されている。ガラスの展示台が唯一被害を受けた施設と説明され、寄付金が募られていた。




 演歌が流れる将軍府と日式家屋群。民生社府のコミュニティが管理する大正時代の木造家屋で、歴史的建造物となっている。花蓮市内で最も古い木造家屋なので倒壊は免れないと思っていたが、被災した様子はなかった。
川を挟んだ病院の裏が倒壊したホテルであり、木造平屋とコンクリート中層建物との対比が印象的な光景だった。




 台湾の新しい建築技術より、日本の古い建築技術の方が優れていると言うつもりはない。熊本地震では死荷重の大きい古い構造物の被害が大きく、阪神淡路大震災では最新のスレンダーな橋脚が崩壊した。その責任は、未曽有の災害ということで問われないが、過度の価格競争から経費削減を行ったゼネコンだけでなく、新しい設計技術とコスト削減を指導した国交省や会計検査院にも非がある。



 地震はプレート境界型ではなく、震源は10kmと浅い横ずれ断層型だった。幸いにも津波や液状化はなかった。今回の地震でも気になったのは、ネットをはじめとする情報の拡散がデマや風評を生むことである。地震直後、ホテルの倒壊した映像だけが情報発信された。阪神淡路大震災のイメージがあり、あたかも街全体が壊滅したかのように印象付けられた。不良建築物で亡くなった方には申し訳ないが、必要なのは市民の安否を気遣う人への情報で、メディア側は街の被災状況を正しく伝える良心が必要だったと思う。



 避難計画は日本と同様に避難場所が指定され、街にも案内板が設置されている。避難路沿いには倒壊したビルがあり、避難路は機能しなかったばかりか危険路となった。日本でも、避難路沿いの建物の危険度チェックや耐震構造物指定などの法規制を見直す時代になった。  


Posted by Katzu at 16:15Comments(0)大震災

2016年04月28日

リング オブ ファイア

熊本地震の起きる2日前、南九州に寄らず先に福岡を発ったが、
沖縄に来る予定の知り合いが被災して他人事ではなくなった。
4月16日、熊本でMg7の地震が発生した翌日には
エクアドルでMg7.8、1週間前にはバヌアツでMg6.7の
地震が起き、その後も群発地震が継続していた。



海外メディアでは、環太平洋火山帯(リング オブ ファイア)が
活発化しており、カリフォルニアでも注意が必要と報じた。
15,000km離れた地点での地震の関連性はないとされるが、
歴史的には地震や噴火が同じ時期に集中する傾向がある。

現在進行中の熊本地震は、中央構造線縁端の日奈久断層帯と
布田川断層帯の交差する箇所で断層帯が動いたためとされる。

北東部と南西部の離れた地域で地震が活性化した一連の地震は、
これまで例のない群発地震が進行しているとされる。
沖縄トラフに続く南西方向には八代海を渡り川内原発が、
中央構造線に続く北東方向には伊方原発がある。



なぜ原発が、大断層の中央構造線沿いとフォッサマグナにぶつかる
阪神から中越地方にかけての断層密集地帯に多く建設されたのか
断層帯の地図を重ね見れば、誰もが疑問に思うはずだ。

用地買収と地元コンセンサスを先行し、適地選定や専門家の意見は
途中からコンサルにまとめさせる発注の仕方は周知の事実である。
専門家の意見が二分されるのは、立場が二分しているにすぎない。

50年も続く廃炉作業は、今から早く始めたほうがいい。

以前から指摘された環太平洋火山帯と連動する活断層帯は、全国的に地震発生の危険度判定がされているが、九州の活断層帯は重要な長期評価の対象でなかった。この活断層は1万年間隔で活動し、過去の活動履歴から推定する地震確率は0%に近かった。活断層の少ない北海道オホーツク側、南東北、北関東、関西内陸、瀬戸内、北陸中部、九州西部は地震が少ない地域とされてきたが、この地方で地震が起きるたびに、地震保険の附帯率だけでなく、地震予知もその都度変化してきた。


         熊本市付近

地震学は基本的に限定的な事象を積み上げていく。
新たな活断層を探しながら、一万年に一度の確率を読み取る科学に
すがるより、起きるかもしれない準備と、起きてからの素早い対応が
大事、と皆同じ結論に行きつく。

今回の地震が長いスパンで見れば東日本大震災の連動とも考えられ
首都直下型地震や南海トラフ地震ばかりが取沙汰されてきたが、
むしろ、歴史家が以前から指摘するのは地震と噴火との関係である。


       主な噴火と地震年表詳細

有史以来の噴火とおおよそMG7以上の地震を年表に羅列して対比してみた。すると、ほとんどの大地震が5年前後の噴火に結びつくことが分かった。専門家は噴火後に地震が起きるという地殻のメカニズムを説くが、歴史的に噴火が先という共通点は全くなかった。さらに地震の起きた近くで噴火するという地域の連動性もなかった。プレート内型と境界型に分ければ細部が関連づけられるものもあるが、リング オブ フャイアの視点に立てば1地点となる。




大震災後、多くの登山者が犠牲となった御嶽山の水蒸気爆発、口之永良部島の水蒸気噴火はあったが、本格的なマグマ噴火は起きていない。
日本人の安全の対象は、身近な海、台地から山へ、そして環太平洋にまで広がっていく。



        被災前

3年前訪れた熊本城は、地元の熱意が伝わるよく整備されたすばらしい公園であった。まだ新しい石垣が気になっていたが、主に古い石垣の方が被災した様子である。死荷重の増加を指摘する人もいるが、築城以来の大地震であることには変わらない。街なかも1日1日確実に元の生活に戻っていくことを願って止まない。

現場は徐々に地震の回数も減りボランティアが集まる体制が整いつつある。今回は地震の特性上、ボランティアに行くタイミングが難しいが、むしろ、政府や行政の対応の遅れの方が気になる。
ただ一つ言えるのは、災害ボランティアとは無償ではなく、自分が災害を受けた時にどうすべきかという経験を貯金することでもある。  


Posted by Katzu at 18:01Comments(0)大震災

2015年12月27日

震災後の街のすがた

 

 震災直後の街を歩き冷静に現況分析すると、震災被害と復興計画は4つに類型化されることがわかった。復興街づくりは、既存の補助事業で対応できるものや、柔軟な換地を可能とする新たな法制度の解釈が求められた。結局、防災集団移転促進事業(防集事業)が拡充されたが、肝心の土地を動かす手法は、従来の区画整理事業と買収事業に委ねられた。



 震災直後、初めて海岸線に辿り着いた閖上の街。
その後、多重防御というコンセプトで、住民同意の区画整理事業が選択された。現場は仮換地が終わったと見え、整地工事が本格化し大型ダンプがフル稼働し、まもなく区域内の通行はできなくなる。現場事務所や組合事務所も機能し始め、被災地という視点から離れ、新しい市街地開発事業を事業計画通りに進める視点が必要となる。



何度となくこの丘に立って街を望むと、無念・悔恨から希望に変わり、やがてやる気が起きてくる。宮城県南部の平野部では、海浜の防潮堤工事が事業プログラム上の優先事業として至る所で進んでいる。



空港周辺では大規模な嵩上げを行わず、いち早く新しい住宅団地が完成した地区もある。これは県の防潮堤計画を前提にした計画で、住民の早い意志表示と選択がこの結果となった。空港以南の平野部の都市部との違いは、幹線道路や重要施設用地が、小さな丘陵状に分散して整地されていることである。




 福島県に入ると、主に道路等の生活インフラ整備が至る所で進行中の段階で、震災直後と同じく国道の渋滞はいまだ続き、原発に近付くにつれ大型車の混入率は50%を超えていく。福島第一原発から10km以内にある南相馬市の避難指示解除準備区域では、もともと空間線量が低く現在も0.1程度で、徐々に住民がもどりつつあるが街の人影はまばらである。



JR常磐線の不通区間にある磐城太田駅では、代行バスが運行され、軌道維持の試運転が行われていた。




 飯舘村の居住制限区域では、除染作業よりも除染袋の維持管理作業が主体で、至る所が仮置き場となっている。県道12号沿いでは空間線量は0.4と以前よりは低く活動に支障はないが、この除染計画には当初から異論があった。



汚染土を右から左へと移すだけで地域の除染は不可能とする専門家の意見は黙殺され、もっぱら住民の気休め政策になり、環境省は今頃になって山野の除染は行わない方針を決定した。住民に寄りそうことと復興の工事を進めることとは、同義に解釈し進められることではない。



しかし、やがて戻る住民のために交流センターを造ることが、未来をつなぎとめる夢であることも確かなのである。先月、沖縄の被災者との会話で残念だったのは、専門家や先生方は早々に退散したこと、避難者と残った住民との間の意思疎通がないばかりか、ねたみや差別の感情が生れていることだった。




県道沿いの街に住民の気配はないが、ガソリンスタンドと工事現場、事業所が数軒営業している。




福島市方面と被災地を結ぶ交通の流れは震災直後と同じだが、変わったのはその多くが通勤のための移動である点である。




 女川はリアス海岸特有の溺れ谷の地形に発達した街で、海底からの津波の破壊力を直接受け、その被害は人の想像をはるかに超え、直後の風景は一生忘れることはないだろう。



23日、女川駅前の商業エリアで復興まちびらきが行われた。谷間の街の閉塞感はなく、駅前の商店街からは海が見渡せた。復興のフロントランナーと言われるのは若者の意見を取り入れ、住民参加型の街づくりが進んだためと言われる。計画論的に見れば、限定された山を削り宅地を造成し、海岸近くを埋め、終点駅を中心にした都市整備は、明快なビジョンとともに従来の整備ができる条件が整っていた。



 被災地各地の街づくりはかつての同僚のコンサルタント会社が担当するものが多かった。個人的に描いた何もしなければこうなります、という提案は、いつのまにか通常の事業のフローチャートで導かれてしまった。山を削り住宅団地を造成し、残土で海を埋め立て新しい島を造る神戸方式は、当時経済的で都市機能を高める計画として評価されたが、阪神淡路大震災の埋立て地の液状化を見るにつけ、地図を変える仕事が目標ではなく大変な責務であることを思い知らされた。



 どんな著名な専門家、研究者でさえ、ここからは地元の人が決めるべきという境界を知り、時間という大きな壁にあたり、責任を知り進めなくなる。それは歴史を享受していないためであると知ったのは震災後であった。



 縄文時代からの歴史の続く南三陸町の波伝谷は、幾度となく津波に襲われながら、先人はその想いを波伝谷という言霊に託した。仮設住宅、復興団地が近くに建設され、本殿以外流された戸倉神社は再建し、国道沿いの津波の碑も移築された。海沿いに国道の嵩上げ工事が進んで風景は変るが、計画論やコンセプト探しも必要なく、神社が街を守って導いていくという不思議な感銘を受けた。




 以前泊まったことのある民宿で、どうしても思い出せない場所があった。防波堤の道路を挟んだ民宿で、港の突堤に魚釣りに行った記憶だけが残る。震災直後は半島の先に行けなかったが、ようやく当時の風景を思い出した。それは静かな志津川湾をはさんだ波伝谷の対岸にあった。もうすでに集落はなく、高台には新しい民宿があり再建された様子であった。
震災は記憶をも風化させるが、若い世代がそれを呼び起させてくれる唯一の希望である。




 南三陸の復興工事を見てひとつ気になることがある。
ほとんどの漁村が嵩上げ整地を選択し、土砂を集落近くの山から採取して海岸に積み上げる例が多い。職住近接の意味では仕方ないが、適地選定を誤れば、海から見る三陸の風景がすっかり変わってしまう。津波は海辺と街だけでなく里山もうばってしまい、海を育てる素地をも失ってしまう。何もできなくても知らぬふりすることなく、この地域に街ができ人がもどるまで死ぬまで見続けるだろう。

  


Posted by Katzu at 20:12Comments(0)大震災

2015年08月21日

地球のひずみ



 まるで子犬の顔のような形の相似台風15,16号は、日本に
近づくにつれ15号が崩れ始め、恐ろしい形相に変化してきた。
気象庁も米軍の予報も急反転し、石垣島を直撃する進路になっている。
(最近は時系列、コースも両者申し合わせるようにほぼ同じである。)



この急反転で思い出したのが、長江(揚子江)の急反転である。
チベットを南下した源流の金沙江は、麗江手前で急に北に向かい、
急速な流れで蛇行しながら、東の四川盆地から華北平原を潤す。
この急反転は地理学上の謎とされ、人為的なものであると言われてきた。




冷戦を経て公開された地図情報を紐解くと、長江第一湾と呼ばれる湾曲は
地図上では東の麗江の土地利用は農地で、自然に堆積したように見える。
実際はその高低差が500m近くあり、古第三期の造山運動により生まれた
複雑な地層が、金沙江により浸食された地形であることがわかる。



           (詳細)


 小学校の宿題で地球儀を工作している時、忘れられない地形があった。
ヒマラヤ山脈の東側にある、大陸を両手で寄せたような山脈だった。
地球儀の紙の張り合わせを、ここに集中させてごまかした記憶がある。
それはチベット南東部の横断山脈という名で、世界でも最も険しい谷が
南北方向に並行している地形であることを後から知った。




 三江併流と呼ばれるこの地域は、怒江(サルウェン川)、瀾滄江(メコン川)、金沙江(長江)が、約100kmの幅に並ぶアジアの大河の源流域である。隣のミャンマー国境を超えると、イラワジ川の源流になる。この地形はチベット高原の流域が一旦集まり、再びアジアの広大な平原に広がり潤す漏斗のような形になっている。北は上海から南はミャンマーのアンダマン海に至る、広大な流域である。同時に、世界自然遺産のこの地域は、ユーラシア大陸の自然環境を左右する重要な地域でもある。



 地球環境の変化は、海水・地表水の流れから大気循環に至るシステムを、気象学、海洋学、水理学、生物学などの分野で地球温暖化が語られてきたが、東日本大震災以降、頻繁に繰り返される地震火山活動との因果関係を調べていくと、地球物理学の視点が必要になってくる。
地震の発生地点の分布は環太平洋に集中しているが、現在最も活動的な地域は日本近海で、北米プレートが太平洋プレートに潜り込む沈み込み型のプレートテクトニクス理論で説明される。その対極にあるのが衝突型で、ユーラシアプレートにインドプレートがぶつかる地域が、四川大地震や先のネパール大地震を引き起こしている。日本海溝の海の地形に呼応するように、4600万年前の造山運動により造られた爪痕がこの横断山脈である。



この地域に住む人々は、谷底の集落と2000mもの高低差のある山を、横断するために建設された道路の切土を農地に利用しながら、45°もの斜面にも住宅を建設している。人口集中地域がないこと以外は日本と同じ災害リスクを抱える地域で、特に水害と地震は大きな危険をはらみ、今後の発展の不安定要因に挙げられる。




 物理的な地球のひずみの監視は必要である一方で、目に見えない地球の地軸の偏心が懸念されている。北磁極が北西へ移動、南磁極が南東に移動しているとNOAA(米国大気局)が発表したものだが、地磁気そのものが100年で6%減少したという報告もあり、今後も総合的な研究解析が地球環境問題のカギを握っている。


  


Posted by Katzu at 21:17Comments(0)大震災

2015年03月26日

福島に想う

 大震災から4年が経って、被災地はどう変わったのだろう。
あの時と同じく、仙台市の荒浜から閖上に向かう。



前日に荒浜小学校の卒業式は終わったばかりで、
被災した校舎だけが当時のままで残っていた。
想えばこの校舎は、多くの人を守り、その役目を果たしたのかもしれない。



海岸は大型の重力式防潮堤が建設中で、公衆便所のあった脇には
慰霊碑が作られ、松林は塩害を受けながらかろうじて残っている。

嵩上げ工事が進む県道10号は、災害道路として相変わらず渋滞している。
地域全体の主要インフラ整備は、まだその途上にあると言える。



閖上は区画整理事業が進行し、嵩上げ工事が始まった。
素人目には遅く感じられるが、区画整理とは土地の課題を
解決するのが目的の一つで、一旦工事が始まれば進行は早い。
むしろ、新しい街ができることを楽しみに見つめながら、
希望を持ち続けてもらいたいと願う。



 仙台空港から海沿いにストロベリーラインと呼ばれた
県道38号沿いに亘理町、山元町を南下し福島県に入る。
津波被害の大きい平坦な地域で当初は入ることすら難しく、
現在も農地は回復せず、幹線道路は途切れ整備が進行中である。



 南相馬市に入ると、空間線量も0.2μSv/hほどに落ち着き、
人の生業と生活がしっかり見えるようになってきた。



ところが、市南部の小高区に入ると街の形相は一変する。
この地域の線量は当初もそれほど高くなかったが、
20kmの旧警戒区域の指定を受け立ち入ることができなかった。



原発事故後の計画行政の中で20kmという大くくりの指定が、
再生街づくりの足かせとなることは初めから予想できたことだった。
その結果、人のいない商店街に、客より先に住民を
戻すことを考えなければならない苦難を強いられている。



 既に常磐自動車道は開通したが、帰還困難区域は相変わらず
線量が高く通過のみ可能で、国道6号も二輪車歩行者は通行できない。

流通経済を先行させる前に、避難地域の将来計画を示すべきだった。
このままでは被災した街が忘れさられてしまう。



 飯館村に入り標高が高くなると線量は一旦増すが、
居住制限区域の宅地に入ると0.3μSv/h程度に下がった。
宅地と農地の除染は進んでいるが、時間減衰予想を見ると
地域全体として除染効果に寄るものなのか明確でない。
汚染が下流に広がるという仮説も山間地域の方は
以前高い状態なのでこの理屈もよくわからない。



宅地の除染方法は、表土をはぎ取り袋詰めし、 
客土(山砂)を搬入し、敷き均した白い土は確認できるが、
集めた汚染土はその多くがまだ敷地内に置かれている。



山間部では、人目を避けるようにフェンスで覆われ
警備付きの仮置き場がフル稼働している。

県道沿いは依然閑散としているが、霊山方面に向かうと
除染作業も進み、集落に留まり焼失した山津見神社は、
氏子や全国の寄付により既に建築が進んでいる。



 毎年この時期に福島に来ると、
初めて遭遇する被災箇所が未だあることに驚愕し、
遅々と進まぬインフラ整備に納得しつつ、
何もできない自分に苛立ちながらも、
坦々と確実に進んでいる個人の姿に勇気づけられる。



 海外で聞かれたのは“Fukushimaは大丈夫か”という、
単なる興味というより、思い入れを持った問いであった。
その頻度は、情報だけが氾濫し腫れ物を触るような
国内の雰囲気より、むしろ暖かく多かった気がする。

福島が大災難から立ち直り先に進む方法は、
日本を飛び越えFukushimaという世界的な名前の
ポテンシャルを最大限に活用することかもしれない。


  
タグ :大震災福島


Posted by Katzu at 20:30Comments(0)大震災

2014年09月08日

複合災害のメカニズム


『アメリカの奥深くわけ行ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つだった。』

60年代、この一文で始まる『沈黙の春』をきっかけに、化学物質による自然破壊と
人体への影響が、日本でも『複合汚染』、として認識された時代があった。
その後、原因が絞り込まれ科学的に証明されたために、原因物質は規制され徐々に公害病も減り、
内分泌攪乱による人体への影響は、まだ全体の死亡率に影響するほど深刻ではない。
人間の所作が自然のメカニズムを変え、巡り巡って人間社会に警鐘を鳴らしたのである。

広島の土砂災害を概観するうち、『複合災害』、という言葉を思い浮かべた。

 西日本の8月の雨量は例年の3倍ほど、30年に一度の異常気象であった。
気象庁の公式見解では、偏西風の蛇行と太平洋高気圧の張り出しが弱いことが、
熱帯からの湿った気流を呼び込んだためとしている。

今年の夏は安定した積雲の状態が少なく、積乱雲が発生する夏の日が印象に残った。
沖縄では相対的な雨量は少なかったものの、青空と雨雲の境界が明確で、
晴天の海に、突然雨雲が通り過ぎる様を眼にする機会が多かった。




 広島市郊外の阿武山は標高585mのアカマツを中心とする雑木林である。
その表土は、マサ土でもろく透水性のある脆弱な土壌であった。
被災地区は八木蛇落地悪谷と呼ばれ、昔から水害の多い土地柄であった。

夜間の時間降雨量は100mmを超え、災害状況も把握できない状態で、
行政側は未明の避難勧告は出せなかった。
都市防災の対応としては、急速的かつスポット的な降雨だったため、
予報に対する緊急の災害対応ができなかった。



災害に見舞われた安佐地区は、既に広島の市街地人口が充填されたあと、
住宅供給の期待に応える形で70年代に開発され拡大した地区で、
85年までの10年間で地区の人口は2倍に増えている。
被災地区のほとんどは土砂災害警戒区域に指定されていたが、
唯一の予防策の砂防ダムは、堆砂でどこまで機能したか疑問である。
70年代の環境対策はターゲットを見つけて対処できたが、
複合災害対策には明確なターゲットが見いだせない。

工学的には降雨強度を最新にして設計することが今後の雨水対策につながる。
しかし、100年確率で設計してきた河川構造物を、テムズ川のように1000年確率に
直せば良いかというと、全体を見直さなければ効果がないばかりか弱点となる。


             UK Environment-Agency

住民は夜間に逃げる間もなく、被災し成す術もなかった。
被災地には、災害に慣れない土地柄でありながら全国から多くの
ボランティアの要請があり、現在もその輪は広がりを見せている。

 気象学的な理由、地質学的な理由、都市防災工学的な理由、それぞれ正しい解釈であると思う。
この複合的な災害を防ぐには、自然科学、社会科学の両面で解析しつつ、
地球環境的な視点から読み解く必要があるだろう。



 海面で温められた水蒸気はやがて雨を降らせ、山林で保水し、
平地の動物と土地を潤い、海岸近くで生物を保養し、また海に帰る。

このメカニズムを変えてきたのは人間の欲望とエネルギーで、息吹く山を削り、海を埋め立て、
CO2の吸収と排出のバランスを例にとるまでもなく、地球の温度の分布を変えてきた。
教条のない人間たちは、戻ることができない同じ過ちを繰り返すのであろうか。



本部のテーブルサンゴのある海から見上げると、土取り場の痛ましい山の端が望めた。
サンゴが壊滅的に失われ、一部残り再生を繰り返した30年余り、
あの砂埃まみれの海洋博建設の時代に戻らないようにするのは、
土地の住民の良心だけなのかもしれない。


  
タグ :都市災害


Posted by Katzu at 02:11Comments(0)大震災

2014年05月23日

沖縄の防災意識の変化

 一昨年、八重山で明和大津波に襲われた集落をまわった時のこと。
その村の佇まいを眺めていると、震災後の三陸にも似て、震災当時の
津波の阿鼻叫喚の様相がフラッシュバックするような感覚に陥った。
公民館の防災講座では、住民の興味はどの高さに住めば安全かという話題が中心であった。
観光客の多い港周辺埋立地の安全性を杞憂する声は聞かれなかった。



 明和地震研究で有名な琉大の中村先生の、地震と津波に関する講演が県立博物館で開かれた。
会場は、その関係の教育者と学生よりも、むしろ一般の人が多く満席であった。
質問も多数寄せられ、その多くは『どの高さ以上が安全なのか』という内容であった。

 震災後に来た沖縄は、地震も少なく安全だという意識があったが、
調べてみると決して少ないわけではないことがわかった。
特に八重山地方は群発地震が多く、津波が島の集落を変えていった歴史があった。
沖縄近海の巨大地震は3000年に5回起きたと言われ、本島も同様に至る所に津波の痕跡があり、
近年のチリ沖地震の津波被害を含めれば、東南海地方同様の災害リスクを背負っているともいえる。

 質問の中に『大宜味村の新小学校の建設地が海岸沿いの埋め立て地にあり安全か』
というものがあった。長寿村の大宜味村は過疎化が進み、4校ある小学校を1か所にまとめ、
埋立地の結の浜に新設する計画が進んでいる。



海と山で平地の少ない村に、通学アクセスの良い開発適地を探すのは容易ではない。
一方で津波を心配する保護者の意見も理解できる。
大宜味村には地名に饒波(ぬうは)、津波(つは)など波に関するものや、
喜如嘉の地層から津波痕が見つかったと報告され不安は募る。



 昭和35年に隣の真喜屋小学校が、チリ沖地震の津波で流出した歴史もある。
羽地内海は北の東シナ海に面しながら、津波の回析波により被害を受けた。
この時、同じ津波を直接受けた南三陸の女川の津波高は5mだった。
津波の伝播の複雑さは、東日本大震災の津波高と被害を見れば一目瞭然で、
同じ内湾の松島と隣の奥松島では雲泥の違いがあった。
地震波ポテンシャルから津波高を解析することは可能でも、地震発生地点や
発生確率も含め、遡上波やポイントごとの高さを限定することは容易ではない。



結いの浜は強固な重力式護岸で守られ、整地高も5m以上ある。
背後の山も近く、明和地震クラスの津波に対しては防災避難計画を立て
その知識を伝承すれば対処できるレベルかもしれない。

 昨年、県の防災会議で地域防災計画がまとめられた。
それによると、バブル以前に開発された糸満、那覇新港、宜野湾、北谷、名護、辺戸名などが
主に津波想定地域にあげられたが、むしろ、近年埋め立てられた地盤高2~3m程度の
中城湾港、与那原の方が憂慮されるべきと思われるが、津波浸水想定地点から省かれている。 
意図するものはわかるが、近年の想定外の災害とはこういう所からほころび出でる。


 (沖縄県地域防災計画)

地震の見識が防災計画に影響するため、専門家に頼らざるをえない面があり、
研究者も大変な責任を担うようになったと思う反面、住民も自ら住む土地の知識を
自分の力で高めなければならない時代になったと感じる。

津波に会った真喜屋小学校跡地は、現在はスポーツ公園として整備され、三陸各地にある
伝承石碑と同じように、チリ地震の津波被災地跡を示す石碑が設置されている。



        
  


Posted by Katzu at 18:34Comments(0)大震災

2014年03月21日

動き出した震災の語り部たち

 3.11の慰霊の日、名取市閖上の富主姫神社には多くの参拝客が訪れていた。
遺族やメディアに混じり初めて来る人もあり、丘に登る人は後を絶たなかった。
ここで活躍しているのが震災の語り部ボランティアで、震災の状況や街の歴史、
現在の状況などをグループごとに説明されていた。

被災者自らが説明する震災の語り部は3県で268人登録されており、
その半数は自己負担で、すでに40万人の人を案内したという。




 南海トラフ地震を想定した防災訓練のニュースがテレビに流れていた。
子供たちは地震直後道路脇に、頭にかばんをのせ身をかがめてた。
宮城県の人がこれを見たら、その過ちをすぐに指摘できることだろう。
先生と子供たちは、危険なブロック塀に身を寄せていたのである。
被災者自ら被災体験を生かし、県外に発信する出前ボランティアも動き出している。
震災ボランティアから、防災ボランティアに変わっていくのである。



これから想定される災害に役立てる意義は大きいばかりか、
被災地に経済的恩恵と支援を促すインセンティブにも成りうる。
復興応援ツアーが各旅行会社により企画され、地元の観光バスや
観光タクシー会社の被災地案内などもサービスを開始した。

被災地を訪れた人の数が百万人単位となったことを考えれば、
ブラックツーリズムの議論はあるが、観光の側面からも語れる時期に来ている。




 仙台市内のメディアアークでは、震災の記憶を映像、写真、
語りなどでアーカイブする取組みを行っている。
具体的には、膨大な映像のDVD化、震災前後の写真の収集、
震災ライブトークなどを若者が中心となり行っている。
当時の携帯に収めた画像などを個人からも募っており、
被災者に求め、求められる距離と時間が、さらに縮まってきた印象がある。



ようやく春の息吹のように、自由に街をデザインする雰囲気もできてきた。
センター内ギャラリーでは、せんだいデザインリーグと称し、
全国の建築の卒業設計パースが展示されていた。




 語りだしたのは被災者だけではない。

震災当時語れなかった多くの科学者、技術者、メディアなども、
3年間の震災、原発事故を語りだした。
科学雑誌Newtonの原発特集を読むと、改めて原発問題の全貌が見えてくる。




 震災直後、がれきの片付かない廃墟のまちを調査し計画概要をまとめたが、各市町村に
新しい街づくりを説明するのは、誤解は承知のうえ、ある意味で勇気が必要だった。



被災者でもある担当者にはかける言葉がなかったが、
〝いずれあなたがこんな資料をコンサルに支持するか、市民に提案しなければならないのです〟
と叱咤激励のつもりで作った資料であった。




 震災現場では、何が壊れ何が残ったかを記録することが、次の震災に備える資料となるはずで、
自然環境や社会環境を調べ参考にすることが、どれだけ街づくりに必要かが痛いほどわかった。



被災・被爆直後に現場に来た技術者、研究者の思いと焦りは同じで、すぐに記録にとどめなければ
永遠に得ることはでない資料は貴重で、今後の災害には対処できなくなる恐れがあった。
しかし、周囲の視線や空気がそれを不可能にした。



被爆直後の児童の被爆検査をしようとした大学病院の医師や、震災被害の生物を
調査した研究者などは、誰に命じられるわけでもなく、作業を中断せざるをえなかった。
そして、その貴重な調査・研究データは、二度と得られない。




ボランティアと言わず、観光と言わず、あまねく日本人なら
一度被災地に赴いて欲しい、見るべきだと思う。

これから起きる震災に備え、被災地の現実を気にかけながら向き合う、今がその時なのである。

  


Posted by Katzu at 17:47Comments(0)大震災

2014年03月14日

3年目の3.11

 あの時は雪混じりで夕方のように薄暗く、次の週に沖縄に旅立つ日を待ちわびつつ、
ちょうどこのTi-daブログの初エントリーをしている最中だった。
緩く大きい横揺れの地震が続き、間もなく停電で2日間詳しい情報は得られなかった。
仙台発那覇行きのチケットとともに、その後の予定はキャンセルされた。

 その後、被災地をまわり、都市構造の崩壊を目の当たりにした。
あの時を思い出すと、海水と油と人や魚の匂いが漂い息苦しく、
物以外にカメラを向ける勇気もなかった。
中越地震や能登半島沖地震の直後にも現地に行ったが、被災者が
自宅の再建より、墓の修復を第一に行っていたことが印象に残った。
しかし、今回はその墓石が見当たらない程の惨状であった。



それ以来、何かタガが緩んだような喪失感を引きずってきた。
関わった仕事への疑問も、釘がささり答えが見つからない状態で、
自然の中で生かされてきた日本人としての真実を教えられた気がする。

死者・行方不明者が2万人を超え続け、県外避難者が26万人もいる現在、
事業は粛々と進められ復旧過程の工事も多く、まだ総括の状況ではない。



 被災地各地では献花台、記帳所が設置され、至る所で道は渋滞していた。
閖上の復興の丘では、弔問客が絶えず現在はきれいに整備されているが、
被災直後は流出家屋が頂上に残されており、瓦礫をかき分けて石碑を見つけた。




街の復興状況について、まだ手つかずの宅地に多くの人はその事業の遅さを嘆く。
東北人特有の、語らず耐える特質のためと言う人もいる。

しかし、今回の震災は、戦災復興の東京や地震火災の阪神淡路大震災とも状況は違う。
向かうべき対象も、明確な商業再生というビジョンもない、中央集権国家の負の遺産や
田舎蔑視の歴史を持つ、地方で起きた広域の自然災害であるからである。



 現在の選択できる事業の中では、オプションは付帯されても都市開発制度は従来と変わらない。
一般的な区画整理事業では、初動から3年目は測量設計から工事に入る段階なのである。
決して、本来の街づくりのプロセスからはずれているわけではない。
むしろ、天災と言う特殊事情が合意形成の足かせとなっている。

海外のメディアも多く訪れていた。
彼らの視点は、仮設住宅の生活や震災住宅の建設の速さである。
ようやく始まったフィリピンの台風被害の、トタン屋根の仮設住宅建設に比べれば、
先進国としての復旧スピードは脅威に映るのだろう。
生活再建を第一に、街づくりは語る時がその始まりと、あせらず取り組むことが大切である。
被災建築物の保存についても、ようやく語り始められる段階なのである。



 一方、各計画については様々な意見が出始めた。
区画整理の未同意だけでなく、高台移転計画の2割が取り止め、高盛土、擁壁の是非、
帰郷意識の低下など、3年と言う月日のなかで変化したものもある。



特に、防潮堤計画については異論が多い。
住民が目の前にできる高さが現実的になり、景観阻害、漁業の作業利便性など
住居を選択する条件になるほど深刻なためでもある。
計画すべてを見たわけではないので細部はコメントできないが、
明らかなことは、防潮堤の効果がよくわからないことである。
震災直後、構造物の被災状況を青森から福島まで、確認した技術者はどれだけいただろう。



津波の威力も、力の方向も、構造物の弱点になった箇所も、残った構造物も、場所により異なり
津波予知とともに、一律の基準設定など疑わしくなってくる。
100年確率規模の設計と、同規模津波の減災計画というのは、当初の思惑通りで、
今回の津波に全体で耐えうる防潮堤などできない、というのが結論である。
引き波、河川側の回析流などが、弱点であるゲート、避難通路、暗渠などから破壊されていく。



知事が引き合いにする被害のなかった普代村の例は、村長の英断もあるが地形的な理由が大きく、
防潮堤の範囲が谷に限定され、田老のような長い防潮堤が必要なかったからである。



一方、護岸復旧もままならず、防潮堤計画に基づく宅地整備計画が進まない地区も多い。




 被災後の石巻市の県道バイパスでは、分離帯にはまだ車やがれきが残っており、
松の木に、おじいさんの亡骸が引っかかっていたと話す人がいた。



現在、木は全部切られてしまったが、減災のためなら時間をかけ、
徐々に土塁石積を積みながら、防災林を育てるのも正しい方法かもしれない。



補助金一括の事業なら、一定基準の全体防御は説明も施工計画も立てやすく
即効性もあるが、事業効果の薄い無駄な税金になる可能性もある。

 午後2時46分、石巻市旧北上川河口の日和大橋を渡り終わると、
サイレンと寺の鐘の音が街中に響きわたった。
車列はゆっくりとスピードを落とし、静かに海岸線に止まっていった。
海に向かって一緒に合掌した。

  
タグ :大震災3.11


Posted by Katzu at 18:45Comments(0)大震災

2012年12月20日

笹子トンネル事故と原発活断層調査

 この2つの出来事は、建設業界と調査設計業界、発注者(維持管理者)との間の
責任所在のあいまいさと、トータル的な危機管理の欠如が背景にある。
事故も落ち着き、他人事には思えず、状況も多少理解できるので、コメントしたい。

 日本のインフラは、古い物は50年が経ち、コンクリートの劣化・剥離、
金属疲労が始まっている。基本的に日本の土木構造物はすべて、
維持修繕を繰り返すか、代替物を造る必要がある。
新規路線の建設で経済の回復を、などというレベルではない。

 笹子トンネル事故の原因は、破砕帯の漏水によるコンクリート劣化、
アンカーによる垂直荷重の支持構造、打音検査の不備が指摘されている。
笹子トンネルは1975年完成で、横流換気方式が採用されているが、
この換気方式は排ガス規制により見直される例が増えている。



構造物の設計というものは、本体工は設計指針で雁字がらめに決まってしまうが、
厄介なのは、基準の少ない付属構造物の設計である。
本来は経験豊かで、現場を知った応用のきく設計者が当たるべきであるが、
工事費に占める部分も小さく、地元下請け業者に回され
メーカーに協力を仰ぎ、安易に扱われる場合が多い。



 基本的にアンカー工とは、短期の水平力だけを負担させるもので、
短期の鉛直荷重や長期荷重は、壁全体で支えなければならない。
なぜこの構造が公団で一般事例化したのかわからないが、
吊下げの構造計算は単純で、支点反力とアンカーボルトの引張力、
許容せん断力、コンクリートの引き抜き力で決まる。
PC板5m×1.2m×8㎝・1枚1.2tの荷重を支える構造計算はOKでも、
支点の施工条件が変わらないことが前提である。
現在は、樹脂カプセルによるアンカー工の施工技術と製品が開発され、
計算上はより安全になったが、漏水し劣化したコンクリートには対応できない。



 甲府盆地はフォッサマグナの中心に当たり、周辺は断層帯が集中している。
このトンネルでは、地下水脈のある断層破砕帯が確認され、工事は難航した。
破砕岩盤を取り除き、大量の水を排出しても、自然の水脈を止めるのは、
山の構造を変えない限り困難である。
当時の状況は、ルート変更はおろか、工法の再検討など
出来る時間的、経済的余裕がなかったのであろう。
日本を縦断すれば、必ず断層帯に当たる。
だから仕方ないのではなく、予想されるエリアでは、
よりルート選定や工事に時間と金を費やす必要があった。

 12月3日付けの国交省の局長通達によると、
全国49トンネルの天井板点検の指示が出された。
すると、地方では当時の設計、工事関係者が呼ばれ対策が検討される。
測量業者からボルトのメーカーまで、担当者は不安な日々をすごす。
多くの場合は、一部の設計ミスや施工不良を除き、
マニュアルや仕様書に基づく行為は罪を問われない。
全体の責任の所在があいまいになるのが日本社会のシステムである。

 管理する側にも問題がある。
道路公団(現NEXCO)は民営化以降、職員が削減され民営委託部門が増えた。
盛土に1㎝の亀裂が入り調査した時は、NEXCO総合技術研究所以下
10人以上の職員が集まり、議論を交えるほど、技術者集団として
厳しい環境にあるが、維持保安部門も縮小し、
管理・責任が他人任せではトータル的な安全など維持できない。

以前のJHの公団システムでなくても、重要インフラの維持管理を
国が責任を持つシステムに変える必要があると痛感する。

 原発の活断層調査からも同じ構図が浮かんでくる。
原子力規制委員会の専門家調査団は、東通原発の破砕帯を活断層と断定した。
敦賀原発では活断層の可能性が高いとしたが、専門家の意見が分かれ、
日本原電は追加調査の計画を発表した。
理論は真理を求めるはずなのに、専門家により調査結果が違うのはなぜだろう。

 これは原発の発注システムにも要因がある。
電力会社は民間企業なので、調査設計は民間に発注される。
調査設計会社にとって、電力会社は測量から開発、設計、
施工管理まで請け負うことのできる大きなクライアントである。
始まりは測量から、地質調査、整地工事へと1つの目標に向かい進んで行く。
地質調査は専門のコンサルタントに外注したとしても、地質専門の技術士だけでは
経験不十分で、つながりのある学識経験者を担ぎ出す。
構造物はメーカーが決まっているので、地質条件が与えられ設計が進む。
この時点でコンプライアンスとモラルが崩れれば、1つの方向に向かってしまう。


            北淡町野島断層

 専門家でも意見の割れる理由は、活断層の基準がないことである。
活断層の定義は
『最近の時代に動いた断層で、今後活動する可能性のある断層』である。
地滑り判定ならまだしも、地層のサンプリングだけでは、いつ動いたかを推定しても、
どこまでを最近と仮定し、どこまでの将来に動く可能性があるかを
理論付けるまでは至っていない。
判断できるのは、地形分析と経験である。
相手の理論を否定できても、肯定できる意見を持たないことが混迷の原因である。

活断層であるかどうかは、原発再稼働の重要なファクターではあるが、
いつ起きてもおかしくない地震に備えること、十万年維持管理できる施設などない
ことを考えれば、科学を理解する者の、原発の方向性は同じ結論のはずである。



少なくとも、マーク1型などの古い原発の廃炉計画は即座に進めるべきだが、
経済を選択し危険を顧みない国民性が、それを認めないのだろうか。

日本のインフラの維持管理は、国が予算をつけ、責任を持って運営システムを
作らない限り、今後も同様の事故が繰り返される。
  


Posted by Katzu at 12:14Comments(0)大震災

2012年12月12日

津波から逃れた街・津波が造った街・津波を忘れた街

 3日前の地震のニュースは、あの時の記憶とまだ終わらぬ現実を、
忘れてはならないと、背筋が伸びる思いであった。



 大震災の経験を踏まえ、視点を変えて石垣島の街を見ると、
津波のつくった大きな歴史の真実が見えてくる。
1771年の明和の大津波は、島の人口を半減させた。
震災後は、特にこの大津波の調査研究が盛んになり、
調査、公演、ワークショップなどが地元でも行われている。
特に、ギネス記録にも載った津波高さ85.4mの信憑性については
否定意見が多く、地震規模による理論値では約30mとなるが、
伝承や現地の墓地や大石の所在から、30m以上あったと推測される。


より大きな地図で 明和大津波 を表示

 現在は遡上波が、白保から名蔵湾に島の東西を抜けたという伝承は
否定されているが、白保北側の轟川を遡上し宮良湾に抜けたという証言もあり、
地図上の分水嶺は標高35mで、遡上可能な高さになる。
新空港の周辺は、最も津波が高かった地域で、この規模の津波が来た場合、
計画高を比較すると現空港よりその危険性は高い。


           琉大中村研究室

各地に見つかる津波石についても、明和の大津波による石ばかりでなく、
さらに古い時代のものもあり、津波の歴史的証明は調査解析中である。


            大浜崎原公園

 旧村ごとの津波被害を見ながら、各集落を回ると、
東日本大震災の津波被害と同じ姿が浮かんでくる。

1、最も被害が甚大で、ほとんどの住民が死亡した白保村、宮良村、大浜村は、
  平地で近くに避難する高台がない。



2、同じくほとんどの住民が死亡した平久保村、安良村、仲興間村は
  海岸沿いの狭く低い土地の漁村で、避難する間もなく流された。



3、同じ条件でも桃里村、星野集落は被害者数が極端に少ない。

この状況は三陸、宮城の被災状況と似ている。
1は、石巻、仙台の都市部の被災状況と、2は三陸の漁村の状況に類似する。

 一方、3のように被害の少なかった集落も存在する。
三陸の大船渡市綾里、普代村などは過去の経験が防災に活かされた例である。



 石垣島東岸の星野集落は、人魚が津波から救った村として有名である。
津波が来る前に、打上げられた人魚が教えてくれた津波の話を信じ、
住民が山に逃げて助かったという素敵な伝説が残る。
これは、おそらく地震前に方向を失ったジュゴンが、打上げられ鳴いているのを、
住民が助け出し、その後、津波前に潮が引いたのを見て、住民がただならぬ予兆に
気付き、高台に逃げたものと推察される。
あるいは同じ伝承が既にあったのかもしれない。



この集落の上の標高20m地点は、大石が寄せ合う高台が数か所あり、
この辺まで津波が来たと思われる。 

竹富島は、被害の大きい石垣島と黒島に挟まれながら、津波高は5m程度で、
伸びた石西リーフに守られる形になった。
海底地形の複雑な松島だけが、奇跡的に難を逃れた例に似ている。

 八重山地方には、廃村に追い込まれた村が多い。
炭鉱の閉山、マラリヤなどによるものと思われていたが、
明和の大津波の影響も大きい。
北東海岸にあった安良村は単独で成立していた漁村で、陸地のインフラも
整わず、津波後は救助も困難で、その後自然消滅していった。
先月、ここの津波石が国の重文指定を受けた。
この廃村への道は雨でぬかるみ、途中で断念した。


            八重山博物館

 宮良の高台にある明和大津波の碑は、案内板もなく
農民から聞きながらたどりついた。
周囲を見渡せる眺望もさることながら、驚くほど立派な石碑が建立されていた。



この隣りには、周囲には存在しないタコラサ―の石という大石がある。
これもオーパーツの一つであるが、ここから周囲を見渡すと、大津波が
白保海岸から北の丘陵部を、横断していく様子が目に浮かんでくるようだ。



この下の集落に住む若者から市内で話を聞いたが、東日本大震災の時は、
『オジィの言った通り、丘にかけ登って海の様子をずっと見ていた。』
と、地元では避難場所として語り継がれている。



津波を避け、丘陵部に移転した集落があるが、その多くは廃村となり、
大浜、白保、宮良、平久保の海岸沿いには住民が戻り、
その後200年以上の集落の歴史を重ねている。

 海岸沿いの新市街地を望むと、どうしても石巻の街の、
あの時の光景を思い出してしまうのである。
必然的な自然条件を再確認し、流された宮良殿内の史実を忘れず、
今後の防災計画に役立ててもらいたいと願う。
  


Posted by Katzu at 15:41Comments(0)大震災

2012年10月31日

震災復興のスピードと課題

 震災後1年半が経つが、現地の復興はどの程度進んだのだろう。
最も復旧工事の進む宮城県を縦断した。
マスコミが報じた復興バブルよりも、混乱の中の復旧工事から
ようやく復興事業へ動き出したにすぎないという印象を持った。
一般の人の印象は、NHKで放送する程度で、関心は薄らいでいく。


              女川町

 宮城県内のがれき処理の大筋の道筋はついたと言われる。
当初最終処分場で処理すべきがれきは77万トンであったが、
最終的に4万トンに圧縮されることとなった。
その理由はがれきの処理を隣接県で分担しつつ、残りの多くは、
津波危険区域の盛土埋め立てに活用できる見通しだという。
大変結構な話であるが、一つ気にかかることがある。
がれきを盛土材に使用した場合、よほど分別し細分しない限り、
土に空隙が生じ、圧密沈下だけで締め固まらない。
それ以前に、大量の土砂が流出し、海の環境に多大な影響を与える。
今まで開発指導要綱や標準仕様書で指導されてきた、50cm以下の
路床材の規定は守られるのだろうか。

簡単に地盤嵩上げと言っても、この地殻の不安定な現在の日本の状況で、
数百万㎥単位で山を削り、海岸沿いに埋め立てたらどうなるだろうか。
広域盛土は1つの流域で高さ5mで、せいぜい10ha,以内に抑えるべきだろう。
幹線道路盛土についても同様である。


            石巻市南浜町

 事業化の進展は、震災後に拡充された防災集団移転促進事業(防集事業)
津波復興拠点整備事業と、従来の土地区画整理事業が立ち上がろうとしている。
素人目にはなぜ早く住宅建設が進まないのか、不思議に思われるかもしれない。
災害公営住宅のように土地・建物を、新たに一体的に開発するのは早いが、
個人の宅地を整備し直すのは時間と手間がかかる。
区画整理を選択した場合は、事業同意が成されてから、現況調査、権利調査
から始まり権利の確定まで最低5年を要する。
現法規に照らした防集事業以上の、既成法規を変える事業は拡充できなかった。
空間区画整理の提案もツイン区画整理か、防集事業とのリンク
というように形を変えた。

個人的には、数百年集落として機能するものを作る訳なので、
意見を十分今のうちに重ねた方がいいと考えたい。
最終的には全員の合意により事業は完了するので、
問題は先送りすればするほど結果的に成就できない。


             名取市閖上地区

 各都市の策定された復旧計画の内容を鑑みると、
残念ながら、当初盛んに議論された東北らしい環境共生型街づくり、
スマートシティ、コンパクトシティなどは言葉にこそあれ、反映されていない。
できた計画は、高盛土、住宅開発、区画整理と、従来のシステム、
手法、利権となんら変わらないことが残念でならない。
住民と目指すべき街づくりを、共感しながら話し合って理解しても、
生活をつなぎとめる被災者が主体的に動けるはずもなく、
ハードな部分は、国交省、地方公共団体、コンサルの作るプランに
迎合せざるをえなかったというのが悲しい。
国道の高さがようやく決まり、実質的な街づくりが
そこからスタートするという従来の悪い例もある。


              女川町

 多くの津波危険区域の土地利用は、現在は荒地として放置されている。
事業上仕方ない面はあるが、震災以降の自然災害により、
明らかに公共施設の崩壊が進んだ箇所を多く見かけた。
石巻バイパスの松は枯渇のためかすべて無くなっていた。
息が苦しくなるほど腐敗臭があった周辺は
落ち着きを取り戻しているかに見える。


             石巻バイパス

 集団移転がまとまらない地区の復興計画は、
多重防御策を謳っているが、逃れの案に思える。
破壊された臨港防波堤や、遮った仙台東部道路にしても、
津波を遅らせた効果はあったわけだが、
人間のできることはこの程度なのだろうか。
多重防御策が仇となった田老地区の例もある。
防御線までの距離と交通計画で検証済み、という解答では不十分である。
海岸線に近い集落の多重防御は、大きなリスクを伴うことを
もう一度理解し確認すべきだろう。


              

 農漁業のダメージは計り知れない。
津波地域の水田の多くはまだ土の入れ替えが行われていない。


              仙台市若林区

 漁業に至っては、水揚げと一部の港湾施設で再生が始まったばかりで
あるが、もとの漁場の再生にはまだまだ時間がかかる。


              東松島市野蒜

 全体的な公共事業の遅れが指摘されている。
仙台市の場合工事入札不調が30%、石巻市にいたっては50%となっている。
その原因は、資材の高騰と技術者、作業員の不足である。
資材不足はコンクリートの基本資材が不足気味なのが響いている。
現場で計画・設計をする知人に話を聞くと、
こと技術者に関しては、人事の移動が激しくどのコンサルも
東北支店に配属が集中している。
仕事が回転しないのは、権利現況調査が膨大であることと、
数年前ジリ貧にあった開発系の若い土木系技術者が少ないことである。

 福島県の状況は、20km以内の警戒区域を除き、空間線量は
1μsv/h以下になっているが、未だ線量が高く、
除染を計画的に進めることが必要である。
福島の復興に日本の未来が掛かっているはずなのに、
英知と人力と援助の心が集約できていない。

街づくりは時間をかけて取り組むべきで、
動き出すまで1年はかかると想定していたが、
国政の事情や既存のシステムに迎合するために
この1年半が失われたとすれば、
復興の遅延よりもっと悪い方向に向かったことになる。


  


Posted by Katzu at 13:46Comments(0)大震災

2012年07月18日

九州北部豪雨について

 今回のこの災害の特徴は

1.1時間100mmを越える雨量、総雨量4日間で800mmという
  『経験したことのないような大雨…気象庁』、であった。

2.被害地域が福岡、佐賀、熊本、大分の平野部から山域にかけ、
  広域災害の様を呈した。

3.38万人に避難・指示勧告が出された。

 1の記録的豪雨については、時間降雨量の観測記録を更新した地点は、
全地域で16か所に上った。
一方、近年にも同規模の雨は観測されており、
100mm/時を越える記録も残っている。
この豪雨は梅雨末期の特徴になりつつあり、
停滞した梅雨前線に南洋の湿った暖かい空気がぶつかり、
上昇しながら積乱雲が発生したものである。



 注目すべきは積乱雲が次々に発生しながら、
前線沿いに移動し被害が広域化したことにある。
積乱雲は、対流圏上部の温度が低いため上昇しながら発達し、
雲頂は高度10,000m成層圏まで達する。
高層天文台によると、鹿児島以北の対流圏上部の気温は
寒冷化する傾向にあるという。
地上と上空の温度差がこの現象を引き起こしている。



                            詳細
 都市防災の課題も見えた。
河川・水路計画は、確立降雨量、設計確立年と流出係数の条件により決められる。
今回の雨は、想定外に限りなく近い降雨量であった。
道路の側溝や水路は5~7年確立の場合が多く、
おおよそ時間降雨量が50mmを越えるとあふれ始める。
河川については30年から100年確立で設計されるが、
おおよそ100mmを越えると限界になる。

 あふれた雨は、流出係数の高い道路を早い流速で駆け降り、河川に到達する。
その頃、隣の沢が集中豪雨を受け、同様に道路を流下していく。
設計上想定された、流出係数の低い畑・原野は水没し、さらに早く河川に集中する。
流速を上げ排水させた方が、効果的な流路設計であるが、予想を上回る
流量の水が、堤内から堤体をえぐる状況では、危険な状況になる。
このような条件は設計では想定されていない。
一級河川筑後川下流域も、100年確立なら
HWLの限界に限りなく近かったはずである。


                                  詳細

 現在の都市構造物は、防災を第一義に考えた設計というより、
確立年を下げ、経済状況に合わせた整備を行ってきた。
その危ういバランスが一度崩れると、もともと危機管理能力に乏しい
都市の施設は一気に危険にさらされる。
原子力政策と同じで、国土政策も経済優先で進んできたのが、
今の都市防災の現実である。

 避難計画に関してはどうであろう。
被害が甚大で一部避難が遅れた地区があったと聞くが、人的被害は最小限だった。
大震災の教訓が活かされ、避難勧告が早期に出されたためだろうか。
38万人の移動を指示できた意義は大きい。

 異常気象の原因は、茨城の竜巻と同様に偏西風の蛇行、
ラニーニョ現象によりもたらされた。
そのメカニズムは、Co2による地球温暖化という紋切り型の表現では
説明しきれないほど複雑であるが、この異常気象は都市生活の
エネルギー負荷の増大が影響していることは確かである。



 地上だけではない。
フィリピン海の海水温の上昇が、今回の雨雲の原因となったが、
日本近海の海水面の温度も同様に上昇している。
海底の温度は、海溝部と海嶺部では温度の変化が違い、
海流の流れに影響を与えている。


                             詳細

 都市部の高温化、上空の大気の湿潤・寒冷化、海嶺部水温の低下、
海溝部水温の上昇などが、異常気象を誘発する。
さらに地底では、大震災による地殻の変動とともに、
火山活動が活発化していく状況にある。

 日本列島周辺は海溝から、成層圏まで、列島の西から東へ、
北から南まで、気象条件が変化しつつあり、
どこで自然災害が起きてもおかしくない、不安定な状態にある。
従来の天気予報だけでは対応できず、
立体的な観測予報システムを整え、公開する必要があろう。

  


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2012年04月15日

液状化問題のその後



 浦安市周辺の液状化について、その後の経過が気になったので、
その状況を知るために、街の周辺を1日中歩き回り、聞き込んだ。
新浦安駅の南側の駅前広場に立つと、地盤が歪んでいることに気づく。
路盤厚の薄い歩道は一様に歪み、宅地境界は段差となり破壊されている。
これは能登半島地震の時と同じで、新しいタイル舗装は同様に破壊されている。



 70年代に我が国に初めて紹介された、タウンハウスとテラスハウスであるが、
特に、テラスハウスは、長屋スタイルという歴史的共通点はあるにしても、
ライフスタイルの多様化により、日本にはその後定着しなかった。
災害時の構造物の強固さや、コミュティの維持を考えると
有効な住居形態と思われたが、現実は少し違った。
比較的古いテラスハウスは、その被害こそ少ないが、
共同住宅という管理形態が、修復と責任の所在を複雑にしている。



公団の共同住宅は、一部基礎が浮き上がり、アプローチの傾斜が
きつくなった個所があったが、躯体そのものの変化は確認できなかった。



河川などの土木構造物に比べ、民間宅地の歪みが目立つ箇所が多い。
阪神淡路大震災で、神戸アイランドは液状化現象が起こり、都市機能が失われた。
日本では、もう埋め立てによるウォーターフロント開発はすべきでないと感じた。



 今回の液状化被害個所は、新しい埋め立て地だけではない。
すでに圧密沈下の収まった、70年以前の開発地も含まれる。
盛土材の質にもよるが、N値2以下の土地にいくら盛土をしても、
スポンジの上に家を建てるのと同じである。
液状化の被害のある個所は、民間開発地が多い。



 公団施行団地は高層住宅の独自基準もあり、独立住宅の地盤調査も義務化している。
民間開発では、平板載荷試験はおろか、スウェーデン式サウンディング試験さえ行わない。
その土地の判断は、建築業者に委ねられる。
建築業者は整地の知識が少なく、整地築造業者の責任にすり替える。
設計者は国の基準で行っているので、問題をすり抜ける知識を持っている。
地元では、あそこは○○不動産なのという声をよく聞いた。



 液状化対策はサンドコンパクション、ウェルドレーン、土壌入れ替えなどが考えられる。
液状化の起きた個所は、砂地盤でN値が低く、地下水位の高い箇所である。
テレビの解説では、一度液状化が起きると地盤が固まり強固になり、
とりあえず安全だ、などと無責任な意見を述べる専門家がいた。
しかし、地盤を入れ替えても再び起きたニュージーランドの例もある。
水の道は止めることも、変えることも至難の業なのである。
自然の地形を変えることは、常にコントロールできないリスクを抱えている。


より大きな地図で 液状化 を表示


  


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2012年03月12日

大震災から1年

 昨日、沖縄では10以上の震災関連イベントが行われた。
多くの被災した親子が、イベントに参加されていた。
世界中でも震災イベントや反原発デモが行われた映像が流れた。
この1年は、瞬く間に過ぎたが、あの日の出来事だけは、遠い昔のような気がする。
同時に、一生忘れることなく、個人が日本人として何ができるか、
を問われたような1年間でもあった。

震災ボランティアは百万人、義援金は500億円、
23年度の震災関連予算は4兆円に達した。
犠牲者は15,854人、行方不明者は3,167人という状況で、
震災後の相次ぐ余震7,000回、避難者は34万人、
県外避難者73,466人は全国に及び、山形県への12,973人が最も多い。
関西以西では、沖縄県が1,000人以上で最も多い。

 私自身は、2月末に沖縄で住居を探し、保証人の判子をもらいに
帰省した際に、震災にあった。
3月20日の那覇行きはキャンセルとなり、2か月間被災地と山形を往復した。
その間、走行距離は1万キロに達した。
被災調査から復興計画まで立てた。
1年間で沖縄と東北を4回往復して見続けたが、何も変わらなかった。



 名護で地震に関するセミナーがあり、
向かったついでに辺野古の海岸に寄った。
丁度、震災のあった午後3時前だった。
曇った海の色はライムグリーン、波も弱く、抗議活動も一段落し
人一人いない海岸の砂には、波紋が残っていた。
震災後の荒浜を思い出した。



数年前に、境界に擁壁と防護柵が設置されていたが、砂浜には
先日の野田首相の来島の際に造られた〝NOだ〟の文字が残っていた。

1頭のジュゴンがシンボルとなり、人間の政治や利権の思惑から
この環境が守られたとしたら、この日本も捨てられたものでないと思う。



被災地を離れるに従い、震災の影響は薄らいでいったが、
沖縄に来てその意識の高さに驚いたと、ツーリングの人が語っていた。

沖縄と福島、お互いに危険施設を背負わされた2つの県が、
これから、日本の将来を見据える鏡になることだろう。
  


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2012年02月03日

宮沢賢治の環境童話

 環境をテーマにした小説の中で最も有名なのは、
レイチェルカーソンの「沈黙の春」である。
この小説は農薬の公害問題をテーマに、
科学万能の考え方に警鐘を鳴らした作品であった。
日本では有吉佐和子の1974年の小説「複合汚染」がこれに類する。



 その約40年前に書かれた宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」は、
環境問題を扱ったSF童話である。
少年時代は、ジュールヴェルヌやポーのSF小説をよく読んだものだが、
彼の作品は、この西洋の科学万能の作品とは一線を画す、
日本的で人間的な、現代のSFアニメに通じるような印象深い童話が多かった。

この童話には、冷害、旱魃、飢饉、病害、汚染、地震、火山、潮汐発電所、
熱気球、二酸化炭素ガス、温暖化という環境のキーワードがちりばめられている。
この先駆的な科学知識と、彼の育った岩手の自然風景、理想郷イーハトーブの
シュールな世界に、故郷を助ける少年の自己犠牲を描いた童話となった。
これは他の童話によく見られる残酷な悲劇でもあるが、死を美化したものではない。

 あらすじの展開は理路整然と解り易い。
現在の科学技術と自然災害との関係、解決の方法論と、
ヒューマン的な完結の仕方を端的に表している。



 80年経った現在、科学の裏付けは変わってきた。
例えば潮汐発電に関しては、1960年代に海外で実用化された。
しかし、日本では繰り返し実験されてきたものの、
海面の干満の差が少ないため、普及に至っていない。
人工降雨については、中国が最も多く行っているが、
むしろ国境を越えた大気汚染が危惧されている。
日本での研究は進んでいない。

 人工噴火により、大量の二酸化炭素を発生させ、温室効果で冷害を防ぐという方法は、
逆説的ではあるが、人間がもたらした現在の地球環境に似ている。
そして最後に、映画ハルマゲドンのラストシーンのように、
最後のスイッチを押すため、主人公が一人火山島カルボナ―ドに残る。


                                    予告映像
当時、宮沢賢治がこのような見識を持っていたことにも驚かされるが、
北国の岩手の大地にしっかりと根付いた、彼の愛郷心と情熱が感じられる。

そして、津波で流された島越駅が、カルボナ―ド駅と呼ばれた由来が、
唯一残された石碑に言霊として残った。
3,000㎡近い駅舎用地は、地元有志がら無償提供されたことが刻まれている。


  


Posted by Katzu at 12:27Comments(0)大震災

2012年01月30日

統計学の罠

 
 先日、知人から検定や標準偏差の相談をうけ統計に関する話をしていた。
統計学の類は、アンケート分析や構造データの棄却などで使うが、
基本的な説明ができず、無知と統計学の難しさを感じた。

都市マスタープランの将来人口予測を行う場合は、幾つかの予測式を
あてはめたものと、実質的な積み上げた人口を比較して、
目標人口を設定するが、予測通り進んだ例は、知る限り少ない。
その理由の一つは、ハードな計画上の思惑が存在するからである。

純粋にプロが、意図してもしなくても、統計の陥りやすい間違いは

1、確率の分母に当たる母集団対象の解釈が違う。
2、確率の分子に当たる対象となる事象の解釈が違う。
3、数値上の有利な式を選択してしまう。

 環境影響予測、経済指標予測など理屈を積み上げる生業は、
時に数字の罠にはまってしまう例はいくつもある。

統計学上は、データの時間的、地理的、自然条件的な均一性が
証明できなければ、正確な結果は得えられない。
その条件を知らない人に対しては、数値だけが独り歩きする危険性がある。

 東京大学地震研究所は23日、首都圏でマグニチュード7以上の
直下型地震が、4年以内に起こる確率は70%という数字を発表した。
首都圏に住む人、仕事をする人にとっては驚愕の数字である。
首都圏への不動産投資はハイリスクに、人の移動に制約が出るかもしれない。

この予測は、地震の回数と頻度がべき乗になるという
『グーテンベルグ・リヒターの法則』に基づいて予測されたものである。
今回の東北地方太平洋沖地震の余震データが、
この法則に合うことから導き出されたものである。



一方、この理論に疑問を抱く人もいる。
これはカリフォルニア地震以降の地震学の成果であるが、
過去の大地震に対しては、このような詳細データは皆無であり、
それぞれの条件は異なる。
これを先の地震の余震と見るか、新たな活動と見るか
見極めは難しいと専門家は見ている。

それとも、一般の人は、今までの地震予測の結果から、
これを鵜呑みにする人は少ないのだろうか。

 今大切なのは、その兆候を捉え観測し、研究するとともに、
同時に防災計画を遂行することである。
震災前から座礁クジラが増えてる原因、富士5湖でワカサギが
釣れなくなった原因とか調べていくと、地底の環境の変化が、
リアルタイムに解る可能性がある。




むしろ、現在JAMSTECが行っているような、海溝付近の深々度海底調査、
実質的な津波観測システム網の構築、地球シュミレ-タなどに
予算と人的配置を向けるべきではないのだろうか。
もちろん、地震に対する防災意識と準備は常に必要である。

 一方、政府の地震調査研究推進本部は、30年以内に地震を起こす
可能性のある(各0~18%)活断層32か所を発表した。
全国地震動予測地図は30年に一度、震度6以上の地震に
見舞われる確立の高い地域を表したたもので随時更新している。


 これは各保険や、評価指標にまだ使われているが、 
活断層が原因なのか、大陸プレート移動なのか原因と対象が違うため、
前段の予測を含めると、トータル的に何が正しいのか、素人にはわからない。

マスコミにも問題があり、数字だけでなく、
その根拠になった考えや背景も報道する義務があり、
研究者も素人にわかりやすい説明を心がけるべきであろう。

  


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2012年01月14日

銀河鉄道の夢



 宮沢賢治の童話作品「銀河鉄道の夜」は、岩手軽便鉄道がモデルと言われ、
現在のJR釜石線は銀河ドリームラインと呼ばれる。
三陸鉄道北リアス線の田野畑駅は、カンパネルラ駅と呼ばれている。



カンパネルラ駅には列車はまだ来ない。
でもこの駅には寄付された燃料で暖炉が焚かれ、
ボランティアがまだ来ない列車のために駅を維持管理している。
その方は津波で親を流された羅賀の民宿の女将であった。



 孤独な少年ジョバンニが友人のカムパネルラと旅する物語は、
幻想的かつ啓示的な不思議な童話で、昔からずっと気になっていた。
宮沢賢治は理系の文学者で測量の専門でもあるが、
天文学も詳しく、天空を描いたという解釈もある。
この童話を読み直して、改めてわかったことがある。

故郷を愛する彼は、自分の幼児期と、この地方の将来の暗闇を見つめて
この作品を書いたかのような印象を受ける。



 島越のカルボナ―ド駅は、同じく宮沢賢治の
「グスコーブドリの伝記」から名付けられた。
この童話は現代の地球環境問題を占ったような作品でもあるが、
この駅は火山ではなく、津波によって失われた。
残された駅前広場の石碑がそのすべてを語っている。



 三陸の人達の話を伺っていると、鉄道がいかに地域を結ぶ
精神の支柱であることがわかる。
生活の移動の中心は車だが、線路がなくなったことに対して、
大きな不安と衝撃を今も受けている。




 宮沢賢治の鉄道に対する夢が、あの作品を作り、
三陸の人々は今も同じ思いを持ち続けている。

人々の心は、銀河鉄道に乗り、溺れた友のカムパネルラや亡くなった母、
船で遭難した人に会いに飛び立ったような、そんな思いに駆られる。




※ 国交省は3次補正で三陸鉄道復旧の予算が組まれ、
  北リアス線は、春までに久慈駅から田野畑駅までの開業を目指している。
  第3セクの三陸鉄道は、被災レールの販売など、営業努力を始めている。
                              内容はこちら
  


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2012年01月08日

冬の被災地 その3

 三陸地方は冬が厳しい。
インフラの整備は進んでいるのだろうか。
仮設住宅地の状況はどうだろうか。

 全体的に被災した市町村では仮設住宅地が形成され、
人々の新しい暮らしが始まっている。
生活に不便なこと、解決できることがないか、
幾つかの仮設住宅地をまわり、話を伺ってみた。



 南三陸町の歌津の例である。
町は壊滅的な被害を受けたが、無事だった高台の小学校の敷地内に、
仮設住宅は建てられた。
住宅自体は特に不備はないようだ。
一人1戸の家もあるが、4人1戸を基準とし、多人数の場合は再配置になるようだ。
ユニットバスで、多人数の場合は小さいようだ。
まちのコミュニティの媒介は回覧版と、入口の掲示板で行っている。
掲示板を見ていたおばあさんは、
「生活自体も文句を言ったらきりがないが、なんとかやっていけます。
こちらはまだ暖かいですが、北の方はもっと大変でしょう。」
と他の地区のことを気遣ってくれた。



最近、下のもとの宅地跡に仮設の商店街ができた。
衣食住中心のセンターであるが、近隣からも買い物客が集まる。
狭いながら海産物も生きが良く、地物の種類も多くあった。
もっと知れたら、国道にも近いので、通過客も立ち寄るようになるだろう。

 北三陸の気候は、海岸線は温暖であるが、少し内陸に入ると氷雪が付く。
田野畑村は海岸段丘の高台に中心市街地があるが、
リアス式海岸の各漁港は津波で甚大な被害を受けた。



羅賀、島越地区の仮設住宅地は高台の高校グランドにある。
仮設店舗はないが、街の店や移動店舗や配達で対応している。
仮設集会所もあり、これから移転計画の話などが行われるだろう。



津波の不安はなくなったが、高台は寒く、
住み慣れた海沿いの方が良いと言う人も多い。
一方、羅賀の集落は二分され、残った家屋は海岸での生活を継続しているが、
主要な施設は流されたため、生活は不便である。
ようやく仮設商店が開店したばかりであった。
ひとえに高台移転と言っても、新しい街をつくるだけでなく、
町のトータル的な計画を作る必要があると痛感した。

 北三陸地方は、交通が不便で瓦礫の撤去が最も遅れていたが、
盛岡、八戸、遠野を拠点に、秋にかけてかなり進んだ。
しかし全体的な瓦礫の分別や、個々の宅地の整備はまだ不十分である。

田老の防潮堤付近 (上:4月6日 下:1月7日)






洋野町八木付近 (上:4月6日 下:1月7日)





現在は、鉄道の復旧、県道レベルの整備、護岸工事が中心に進んでいるが、
市街地の整備方針が立たないこともあり、道路の基本設計ができない。
JR八戸線は現在運休中であるが、線路の整備は進み、
保守、管理施設を整備し、3月に全線開通予定である。
三陸鉄道は北リアス線の一部運行しているが、駅舎、橋が
流出した箇所もあり、全線復旧には時間がかかる。

野田村安家付近 (上:4月6日 下:1月7日)





防波堤を含む全体的な港湾施設の整備は、基本的には進んでいない。
  


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2011年12月24日

冬の被災地 その2

 福島はずっと気掛かりだった。
20km圏内の警戒区域の浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町はもとより、
周囲も通行止め道路が多く、近づけなかった。
震災後の調査は、数字データと地図、航空写真だけだった。
震災2か月後、岩手、宮城県に出した復興計画案は、福島県には提出できなかった。

 福島県内の浜通り地方は地震の影響も大きく、
路面状況は段差や亀裂が依然多い。
海岸沿いは雪も少なく暮らしやすいが、内陸部に避難した人々も多く、
慣れない環境と雪道の運転には注意が必要だ。

 陸の交通状況は基本的に回復したが、海の交通はどうであろうか。
震災後、道路冠水で入れなかった相馬港に行く。
相馬港は宮城・山形の物流も手掛ける重要港湾に指定されている。
南の第一埠頭は破壊され、他の埠頭は形状を留めているものの、
稼働は15バース中3バースのみである。



 港湾整備は、これから3年間の復旧計画で行うが、
8割壊れた沖防波堤は5年計画で進める。
陸の交通に比べ、海の交通は拠点整備だけで済むが、
防災計画は陸以上に難しく、復旧には時間がかかる。



 北側の松川浦は、地形が変わるほどの津波を受けた地域で、
潮干狩りの干潟はなくなっていた。
ストレスを受け生き残ったハマグリが報告された場所である。
津波は橋の床版近くまで来たが、漁師達は言い伝え通り、
船を沖に漕ぎ出し130隻が難を逃れるという伝説を作った。
福島で残った船の3分の2が松川浦漁港の船だった。



 JT産直店は、現在も高潮時に冠水する道路わきにある。
野菜を見ると、この辺は豊かな農業地であることがすぐわかる。
間もなくイチゴ狩りのシーズンに入る。
ビニールハウスで育ったイチゴは、放射能も検出されなかったが、
風評被害が心配である。  和田観光苺組合はこちら  


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