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2012年09月30日

辿り着いた音楽

 ラオスのルアンパバン王宮博物館のすぐ近くに泊まった時、
夕方近くに民俗舞踏の音楽が聞こえてきた。
耳をそば立てると、器楽の中に、なじみの旋律が流れてきた。
『安里屋ゆんた』の〝マタハリヌ ツィンダラ カヌシャマヨ〟の
旋律が曲の最後に流れ、それが何度も続いていくのであった。



 琉球音楽は、14世紀に中国福建省から三線が伝わった頃から
始まった、というのが定説となっている。
これには少し異論がある。



 琉球三線(サンシン)は、中国の三弦(サンシェン)がその原型とされている。
4年前、その起源を求め南中国に渡ったが、
同じ形の楽器が雲南民俗博物館にあった。
しかし、それは弦の位置が違い、バックに流れていた音楽も
二胡に代表される中国の宮廷音楽で、琉球音楽とは異質のものを感じた。

 三線の蛇皮はもともとインドニシキヘビであったが、生育数が減り、
ビルマニシキヘビかアミメニシキヘビが使われるようになった。
いずれも中国本土にはあまり生息していない。



三線や二胡のオリジナルは、シルクロードを経てインドから
伝わった、ペルシャ音楽の楽器であったと言われる。
一方、琉球民謡自体は、島独自の労働歌、祭事の祈り歌であったが、
その習慣や言葉は、人と共に南洋から伝わったと考えられる。

ベトナム北部からラオスにかけての地域で聞く音楽の中には、南洋的で
ゆったりとした、時々明るく跳ねるような音が加わるサウンドがある。
これは琉球音楽に似た伝統音楽の共通性を感じる。



 世界の民俗音楽の多くは5音階(ペンタトニック)である場合が多いが、
琉球音階はニロ抜き長音階(ドミファソシド)の5音階で、
中国、朝鮮、モンゴル、日本の音階とは異なる。
この琉球音階に最も近い音階は、ジャワ島とバリ島の音階であると言われる。



ジャカルタに住む知人は三線を持っていて、地元の人と合奏して、
その同じ音楽性に驚いたと語っていた。
前述、八重山民謡の『安里屋ゆんた』の歌詞の
〝マタハリヌ ツィンダラ カヌシャマヨ〟は
インドネシア語で『太陽は万民を照らす』と言う意味になるらしい。



 長い間、口承としての音楽が、黒潮に沿って海上交易とともに伝わり、
インド・中国から伝わった楽器の形を借りながら、
琉球音楽として成り立って行ったのかもしれない。


                                            詳細
 ビエンチャンに向かうバスの中で、運転手が好きなテープを流していた。
決してコンテンポラリーな大衆音楽ではないが、フィリピン的なノリとインドネシアの
クロンチョンのウネリをチャンプルーにしたような興味深い音楽であった。

沖縄から『花』や『島唄』の歌が、アジア、アフリカを駆け巡ったことを思い出していた。
この沖縄からインドネシアに至る、古スンダ王国の大きな領域が、
熱帯の環境と文化を共有することに、改めて気が付いた。

  


Posted by Katzu at 00:04Comments(0)アジア

2012年09月27日

辿り着いた海人

 琉球王朝時代の琉球人の交易ルートを探っていくと、
マラッカに行きつくと言われる。
この辺は『沖縄からアジアが見える』 比嘉政夫著に詳しいが、
多くの交易品からこのルートは確認されている。


           マラッカ海峡

現在のマラッカには、琉球らしさを表現するものは見つけられなかったが、
インド、マレー、西欧、中国各を結ぶ一部には琉球が含まれていた。
15世紀のマラッカ王国は、琉球と同じ明の朝貢国であったため、
お互いに交易があったとされている。

 ジャワとの交易も同様に行われた。
現在のインドネシアには沖縄との共通項がたくさんある。
食文化では同じチャンプルー料理、
音楽では同じ音階に代表されるが、
言語学、民族学的にも明らかにされつつある。

インドネシア人の会話を聞いていると、沖縄らしい発音を耳にする。
彼らが口癖に使う『Tidak apa apa』(だいじょうぶ)は、
八重山では『太陽のばあさん』と聞こえる。

琉球王朝は、海洋交易国家でもあり、海人の遠洋漁業の逸話もあり、
沖縄から海人が辿り着いた先を探し求めてきたが、
赤道側から視点を変えると見えてきたものがある。

琉球王朝時代と東南アジアとの交易は歴史的にも証明されており、
海を渡った海人として認識できるが、
もっと遡った時代に交流があったと推測できる。


                                       詳細

 人類学の研究は、アフリカを起源としつつ、もう一方の末端を、
台湾の高砂族を起点として広がったという説が、世界の潮流となっている。
昨年、台湾建国100周年記念事業でも盛んに紹介されていたが、
これは単に国威発揚のためばかりでない。
この高砂族同様、7万年前の港川人の進化過程が、
古インドネシアのスンダランドに至ると言われる。


        国立科学博物館                        

 言語学においてもオーストロネシア言語圏は、
マダガスカルから台湾に至る広大な圏域に広がっている。


                                   詳細

さらに、5~10世紀にかけてこの圏域に重なるように、
シュリーヴィジャヤ王朝がこの広大な領域を治めた。
不思議なのは『山の王家』と呼ばれたジャワのシャイレーンドラ朝が
8世紀にシュリーヴィジャヤ王朝を倒し、その覇権を握った。
その後この王朝は、カンボジアからハノイまでを駆逐した。
しかし、ヒンドゥー教の台頭とシュリーヴィジャヤ王朝の再興で、
巨大なボロブドゥール仏教寺院を建立した後、歴史から海へ消えてしまう。



たった100年の盛衰であったが、アレキサンダー大王、チンギスハーンの
歴史をひも解いても、広大な帝国はせいぜい100年位しか維持していない。
その後のシャイレーンドラ朝は、遠くマダガスカル島に渡り、
民族の血を残したとも言われる。
同じくこの海上交易国家の末端にあたる、
琉球王朝以前の古琉球にも辿り着いたと考えられる。


                                   詳細

日本では、単一民族論や日琉同祖論の強い民俗学のためか、
あるいは、自然科学と壁ができている文化人類学のためか、
この南洋進化論を理論立てて展開する人は少なかった。


         ジャカルタ国立博物館

 インドネシアと言えばジャワ原人が有名であるが、
有史以降の古インドネシアの海洋国家との関係に、
琉球の起源をめぐるキーワードが隠されている。

 辿り着いた海人とは、宝貝をとった漁師だけでなく、
南から来たジャワの仏教徒だったのかもしれない。
  


Posted by Katzu at 22:09Comments(0)アジア

2012年09月24日

世界遺産の街づくり



 ジョージタウンはマラッカとともに19世紀、イギリスの植民地として
マラッカ海峡を実効支配する拠点として発展した港町である。
2004年のスマトラ島沖地震では、島の反対側にもかかわらず、
海峡の回折波により3mの津波がかビーチを襲った。
対岸のスマトラ島はインド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートの
境界で起きる地震地帯であり、それ以降もMg8クラスの地震が多発している。
その後、2008年にジョージタウンが世界遺産に登録され、
ペナン島は津波の影響もなく発展しているが、市街地の想像以上の発展と
車の渋滞が、ビーチリゾートのイメージを覆っていた。




 マラッカも同様に西洋とオリエントの文化圏の交流の歴史が、
この町の魅力をつくってきた。
かつてアラブ、中華、マレーの文化が交差した街を歩いてみた。



この街は、世界遺産となった歴史的建築物群だけでなく、
近年開発されたリバーフロントや巨大モールが、
都市の魅力を引き出し、変貌しつつある。



都市施策としては一旦成功したと言えるが、
観光客が週末に集まる史跡エリアと、居住エリアの住み分けが
これからのマラッカのまちづくりの課題になるだろう。



ザビエルと運河と赤いオランダ建築物というシンボルを、
オリエンタルな複合文化として、街に調和させることがポイントである。




 ジョグジャカルタは、ボロブドゥールとプランバナンという
2大宗教の世界遺産があるが、度重なる地震の影響もあり、
遺跡自体の修復と再築が進んでいない。



何よりも国内の信徒が圧倒的に少なく、その母体となる保存組織が
海外にたより脆弱なことが残念である。
市内の交通インフラ整備も大きな課題となっている。


 ジャカルタは1,000万人の人口を抱えるメガシティであるが、
特に観光とは無縁に居住地区を拡大している。
しかし、どんな都市にも、歴史のある街は存在する。



ジャカルタ北部のコタ地区がそれにあたる。
世界遺産のマラッカと同じで、かつては港として海外貿易で栄え、
オランダ統治時代の重要拠点の港町であった。
コタ駅は積み出しの起点駅として栄えた。
現在はスラム化して危ないとガイドにはあったが、
ここがこの都市の魅力が詰まった所だと直感した。



この街を半日歩いてみた。
その面影のある建物は残っているが、その多くは朽ち果てようとしている。





博物館、見張り台、跳ね橋、古い港湾倉庫があり、
オランダ時代を彷彿とする建築物は、ジョージタウンや
マラッカと同じような歴史的背景を持つ。





しかし、その価値は、河川の汚染と、混雑する車、ゴミの放置、
石を投げる路上生活の子供達などが、すべてを色あせたものにしてしまう。
この地区は線的な観光開発よりも、面的なウォーターフロントの再開発を行い、
空港を結ぶ公共交通機関を整備することが、
この都市を輝かせる最後の手段になるかもしれない。



世界遺産のある街づくりを見ていくと、

1、入場制限、インフラ整備をすることなく、観光客だけが増えた例。

2、観光客の入場制限、環境保護税の徴収などにより、
  文化遺産の保護、環境対策を優先させた例。

3、観光客を集める以前に、街づくりの基本的なインフラ整備が優先された例。

4、観光と開発の付加価値を高めるため、市街地整備事業を積極的に行い、
  文化遺産を街づくりに活用した例。

この例は、1から4に進む事業化の過程でもあるが、
その一方で、どれを目標にするかの議論と理解、
法規制の整備と、実現方策の選定を行なうことが不可決である。
ジャカルタを例にすると、発展途上の都市を再編するためには、
古い歴史の良い部分を探し、見直すことから始めるべきであろう。
  


Posted by Katzu at 20:32Comments(0)まちづくり

2012年09月21日

暑い北国・涼しい熱帯

 先週、ジャカルタから東京に戻った日、六本木の東京ミッドタウンで、
インドネシアフェスティバルが行われていた。
東京はジャカルタより暑く、芝生で立ちながらガムランを聞いていると、
眩暈しそうになった。
東京の方が紫外線は弱いはずだが、太陽が痛いほどまぶしかった。



次の夜、那覇空港に着くと、湿度の高い東南アジアと同じ空気にまた戻った。

 数日前、山形の実家から電話があった。
『今日は34℃にまでなった。この時期の残暑とはまるで違う。』
赤道直下のシンガポールと、北緯38度の山形の気温を比較してみる。


                                         詳細

過去の月別平均気温を比較すると、シンガポールは25~27℃で、
山形は-0~25℃、それぞれ熱帯、温帯の気候特徴を表している。
しかし、今年8月の山形の平均気温は27℃で、シンガポールとほば同じ、
最高気温34℃はシンガポールを越えた。

先月訪れた東南アジアは、30℃を越える日は少なく、
すごく暑いと感じたことはなかった。
冷房のせいもあるが、Tシャツ1枚では明け方が寒く、風邪を引いた。
帰る直前に咳が出始め、帰りの飛行機までずっと風邪薬を呑んでいた。


                                       詳細
気象庁の8月の世界の月平均気温偏差によれば、
日本北部の高温化と、熱帯モンスーン地域の低温化が顕著に表れている。
一方、シンガポール環境機構によると、
シンガポールの平均気温は、地球温暖化により、世界の各都市と同様に
年々上昇傾向にある。


                                     
                                         
詳細
熱帯モンスーン地域は、日本を含む広大な太平洋高気圧の
押し上げが煩雑化することにより、気候変動が起きているとしている。


                                     詳細
 東南アジアの都市では、公共の場で咳をする人が多かった。
気候変動の影響は、東南アジアが避寒・避暑地域として注目される一方、
感染症という新たなリスクに対面している。
他方、モンスーン地域の北端に位置する日本の東部では、
気候変動の振幅が大きく、自然環境の厳しさが助長される傾向にある。

  


Posted by Katzu at 12:56Comments(0)アジア

2012年09月18日

辿り着いた仏教都



 大乗仏教は北インドから中国、モンゴル、日本に伝わった。
他方で、ボロブドゥール寺院は、南インドから伝わった大乗仏教
により建立されたと言われる。
シュリーヴィジャヤ王朝は、5世紀から10世紀にかけ
マレー、ジャワまでを勢力下に治めた一大勢力であったが、
この寺院はジャワ中部を治めたシャイレーンドラ朝が
8~9世紀に建立したと言われる。
その後ヒンドゥー教・イスラム教が席巻したため、
この地が大乗仏教が辿り着いた最終東端と言われている。
北部ルートで日本に辿りつき発達した一方で、赤道を越えてインドネシアに
辿り着いて一大仏教寺院ができたことに、宗教の強靭さを感じる。



 ボロブドゥール寺院が遺跡として残ったのは、イギリス人のラッフルズ卿が
再発見・発掘を進めたたものだが、その後オランダが引き継いだあと、
戦後は、日本の資金・技術協力で復元を進めたものである。
そのため、現地の日本語ガイドが数名いるが、
ここに来る観光客の多くは欧米人である。
朝早くから座禅を組んで瞑想する若者もいた。
世界最大の仏教寺院であるにもかかわらず、
仏教徒がいない不思議な光景だった。



遺跡は、近年、偶像崇拝を否定する過激なイスラム教徒が侵入し
破壊行為に及んだため、現在も警備員が数名、監視している。
外国人は、高い入場料と腰ミノの着用が義務付けされている。



 ボロブドゥール寺院は、底辺が105mで9段の2m幅の回廊があり、
各階段で繋がっている。



釈迦の物語のレリーフをすべて見ながら歩いたが、
5km程の延長で1時間以上かかった。
この寺院のデザインは、大日如来の曼荼羅の世界を現したものと言われる。



築造は、現況地形を活かし石板石像を組み立てていったものだが、
雨水が石組の基礎を流さないように、遺跡の四方に流路を設け、
像の口から水が流れる仕組みになっていた。



 この仏教都の話はここで終わらない。実はこの寺院の形の縦横比率と
同じ遺跡が、さらに海沿い伝わったと言う説がある。
それは、北東に3,000km離れた隣国パラオの人工的なケズと言われる段々山、
さらに北北西に2,000km離れた沖縄の城にそのデザインが似ている。
それを証明する副葬品は出土していないが、このストゥーバから北を望むと、
亜熱帯域までを共有する広大な領域を感じてしまう。





 この寺院を造ったシャイレーンドラ朝とは、謎の多い王朝で、
広大な海洋国家であったと推測される。
アフリカのマダガスカル島への移民、ベトナムへの侵攻、
唐への朝貢も行っており、アンコールワットの築造にも影響を与えていたという。
パラオのEangという集落も南島からの移民と言われており、
時代背景からすると、この種族だったのかもしれない。
この集落の背後の山も、ボロブドゥール遺跡に似た形状のケズがある。



 一方、スリランカから東南アジアに伝わった小乗仏教は、南伝仏教、
上座部仏教とも呼ばれ、タイ、ミャンマー、カンボジアに広まった。
カンボジアでは上座部仏教が主流であるが、アンコールトムは大乗仏教、
アンコールワットはヒンドゥー寺院と複雑な歴史背景がある。
チェンマイとルアンパバンが、上座部仏教が辿り着いた都
ということになるのだろうか。





日本の宗教解説では、上座部仏教は己の解脱を求めたもので、
大乗仏教は他人の救済を求める教義に基づいたものだと説明されている。
しかし、教義の優劣より、寺院を生活の場とする多くの僧侶や、
毎朝托鉢する住民、子供が興味を持つような仏陀、遊園地のような寺院、
アユタヤに唯一残された釈迦の安らぎの表情、
さとりを開いた最終解脱のポーズの涅槃仏などを見ていくと、
南国らしいおおらかな宗教として、
庶民に愛されていることは紛れもない事実なのである。







  


Posted by Katzu at 01:43Comments(0)アジア

2012年09月14日

都市調査の初動と街歩きの基本

 NHKで『世界ふれあい街歩き』という番組がある。
一度見てしまうと、自分の趣味をとられたような気分になり、
何か違和感を感じてしまう。
旅行に関する日本の海外ドキュメンタリーすべてに言えるが、
現実はこんな気持ちのいいことばかりではない。
いざ仕事となれば、なおさらである。

新しいまちに行き現地調査する時の初動は、いつも同じスタイルをとった。

1、徹底して地図を読み込む。
 国土地理院の地図を読み込み、方位、街の形、広さ、土地利用、地形、地質と
徐々に空間的な理解から、計画のイメージまで膨らませる。
通常は1時間かけて、地図を見つめ続けている。
海外ではWorld MapFinder /からデータをさがす。
もちろんGoogleマップは補完的によく利用する。



2、現地では、できるだけ公共交通機関を利用する。
 自動車で点と点を結んでも、その間を見逃してしまう。
生活の一部に入り込まなければ、街の本質が見えてこない。
バスからの視点が一番よく街が見える。


          ジョグジャカルタ市内

ポイントが決まればひたすら歩きディテールをさがす。
当然、効率的に見るには自転車とランという選択肢もあるが、
海外で安全に利用できる都市は少ない。


          ビエンチャン市内

3、博物館・マーケットを訪れる。
 地形図ではわからないマップを観光案内所でもらい、博物館を見学する。
博物館は地域の自然・文化・歴史だけでなく、地域特有のデザインや
生活全般まで、地域の宝を短時間でさがすには不可欠な施設である。


          ジャカルタ国立博物館

市場・市民マーケットは、庶民レべルの生活感、食文化、経済などを
知るため最も適した現場である。
詳細調査は、役所や図書館などで次回行う。


         ルアンパバン-ナイトマーケット

 これらは、まちづくりや環境調査だけでなく、
市場調査や新生活の準備などにも応用できる。
というように、経験的に街の外観を把握できるようになるわけだが、
それは今では、自分にとっての旅行スタイルの基本にもなっている。

1、GoogleマップやGPSの利用だけでは、
リアルに現実を理解し、道に迷った時は重宝するが、
たより過ぎると大事な部分を見落とし、記憶に残らない。
事前の知識の詰め込みは、ほどほどでも良いと思う。
現地の情報の方が、圧倒的に正しい。
日本人だけの情報とコミュニティから抜け出し、
現地モードにいかに切り替えられるか、が大切なのである。


          マラッカ市内

2、市内ツアーで印象深かったものより、自分で歩き、
道をはずれ出会った市場や人達の方が、
その街の現実を良く知る手掛かりとなる場合が多い。


          ジャカルタ-コタ駅          

自分の足で回ることは大切だが、自転車の場合、
交通ルールを知らない観光客に遭遇することが良くあり、
いつも危ないと思う。
特に、一方通行道路の自転車逆走は危険で、
二輪車レーンはバイクと同じ扱いで走らなければならない。
歩道の横断もしかりである。


          ルアンパバン市内

3、博物館は時間の許す限り見学するようになった。
理由は、その国の断面を短時間で見ることができるためである。
注意しなければならないのは、ガラクタを集めただけの所や、
ただの保管場所にしている所、国の体制を賛美強調したもの、
宗教的に偏ったものなど様々であるが、研究途中でも
ありのままを展示してもらいたいと思う。


          チェンマイ国立博物館-窯炉

 クアラルンプールの国立博物館では、この国の歴史がイスラム教と結び
ついた頃から、急激に歴史が動き出し変化して行った様が、よく理解できた。



 ジャカルタの国立博物館は当初、期待していなかったが、
この国の民族的・宗教的・地理的に多様な、
あふれるばかりの収蔵品に圧倒されてしまった。
中庭の石象群は詳細の説明はないものの、
イスラム風中庭に、仏教、ヒンドゥー教の神々が
仲良く置かれている様に、なぜか感動すると同時に、
この国のことが理解してしまったような気持ちになった。



 市内マーケットは魅力的な観光資源でもある。
観光物産館との違いに愕然とすることもあるが、
必ずその国の本質が見えてくる。


           バンコク-サンデーマーケット         

ここまで来ると、あとは居住することで見えてくる深い世界が待っている。
  


Posted by Katzu at 23:43Comments(0)まちづくり

2012年09月09日

日本人の求めるシャングリラ



 中国の南部からパキスタン北部にかけて、
シャングリラ(理想郷)伝説が残る。
雲南省には同じ名の都市があるが、
現実的に日本人が、住むのに理想的な都市はあるのだろうか。
海外では日本人が住みやすい環境は少ない。
日本人は類まれな厳しく変化する、独特な自然環境で育っているので、
大陸・海洋性の変わらぬ環境に耐えられないか、飽きてしまう。



 海外で暮らす人達から、タイ北部のチェンマイが
住みやすいらしいという話を何度も聞いた。
チェンマイはタイ北部、バンコクの北600kmの位置にある。
14世紀、ランナー王朝によって遷都された。
標高300mほどの盆地で、周囲には2,000m級の山が連なる。
長野あたりの風景を思い出す。
それほど蒸し暑くなく、冬期の避寒地には最適である。
旧市街地は、1辺1.5kmの堀と城壁によって構成されている。
仏教寺院も多く、タイの古都と言われる所以である。
郊外は田園が広がり野菜・フルーツの種類も豊富だ。
左通行の車で1時間ほど行くと温泉などもある。
このような日本的なイメージが作れるので、
日本人観光だけでなく、住居提供のビジネスも始まっている。
日本人による住宅地開発が起きてもおかしくない。



 街づくりに目をやると、史跡名勝の多い旧市内の低層住商業地域に対し、
郊外は高層建築も見られるものの、景観整備も意識した建築物が多い。



しかし、都市人口が山形市と同じ24万人を越え、
車の数も想像以上に多く、都市生活には車が必要である。
旧市内はナイトバザールなどもあり、一見楽しそうに過せそうだが、
日常の買物は郊外にでる必要がある。



旧市街地の外は生活環境、その他安全・衛星面で不安が残る。
それは、汚濁したピン川の周辺を見れば一目瞭然である。



北のバラと呼ばれる古都チェンマイではあるが、
シャングリラはもっと未開の北部にあるだろう。



 都市の形態は、人口が10万人を越えると大きく変化する。
この時点で多くの都市が環境問題を抱え、公共投資が急がれつつ、
開発と保全とのバランスをとるのが難しい。
せいぜい1万人規模の町が丁度よいサイズで、
必要最小限の都市機能があり、集落的な一体感もある。



 ラオスのルアンパバーンは、緑に囲まれた川沿いの町で、
朝は托鉢が行われ町は、お香と釜を焚く煙があちこちから立ち昇る。
車は増えているものの、居住区域には小路が生活道路となり、
朝市や日常通行に利用されている。



川に伸びる緑道などは、計画者が意図的に創ったような、
洒落たプライベートの雰囲気さえある。





これには、もうひとつ理由がある。
この国はフランスの統治時代もあり、ヨーロッパの生活様式も残り、
旅行者用に新たに造られたヴィラも連なる。
イギリス人がここを行きたい都市の一番に挙げた理由は、
自然・文化・種族の伝統が、バランスよく生きづく町であることである。
農村コミュニティ、仏教にもとづく規律、河川と丘陵風景などが
日本人の心を動かすとすれば、ここもシャングリラの一つかもしれない。



 ただ、ここには海がない。
海彦・山彦を標榜する日本人にとっては、
海がないのは魅力が半減するのに等しい。
福島県の浜通り地方のような海に近い丘陵地が、
日本人の心の理想郷だったのかもしれない。
  


Posted by Katzu at 03:15Comments(0)アジア

2012年09月04日

ゴールデントライアングルの秘密



 タイ北部のチェンマイからラオス北部のルアンパバーンに向かい飛んだ。
ラオス航空のATR72という双発のプロペラ機であった。
外務省の資料には、調整不良もあり利用を控えた方が良いとあったが、
陸路は15時間と聞いて、あえて利用した。



眼下には、地球にはまだこんな緑があったのか
と思わせる広大な密林が広がっていた。
タイ、ミャンマー、ラオスの国境地帯は、
黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)と呼ばれ、
世界最大の麻薬・覚せい剤の密造地帯であった。
世界各地、日本でも、三方境は悪者が集まる地点となる例が多い。
ここは、中国国境に200km、ベトナム国境に300kmと近接しており、
何処にも逃亡が可能である。
この地は山岳地帯でもあるが、戦略的な要所でもあり、
日本軍がビルマ戦線、インパール戦線で敗れ、
追われた多くの日本兵が逃げ込んだとも言われている。



 この地への興味は、戦略的、地理的ポテンシャルだけではない。
それは、中国長江文明と、メコン文明の結節点にあたる点にある。
日本から沖縄を通り、南へと宗教、遺跡、農業、音楽、
そして人種などの共通点をたどると、
どうしても、この地帯に辿り着いてしまうのだ。
そして、東は台湾から沖縄、西はブータン・ネパールへと
1本のラインでつながってしまう。

その動機となった対象を概観して分けて考えると

1.人類学的考察
 アフリカ起源の人類移動の末端か、もう一つ起源が台湾少数民族、
 アボリジニなどにあり、古琉球の港川人もこれに含まれると考えられる。
 同じアフリカ起源の北京原人や北部モンゴロイドとは異なる進化を遂げた。



2.文明論的考察
 近年、長江文明は世界4大文明と並ぶ文明とされている。
 その影響は日本、ミクロネシア、東南アジアにも派生した。
 その派生した文化は、時同じ14~15世紀にかけ各統一王朝が各地に誕生した。



3.文化人類学的考察
 宗教的には、大乗仏教が東南アジアの北部ルートと南部ルートに分かれ、
 広がったが小乗仏教はタイ北部で途絶えた。



 音楽的には、インドネシア、タイ、ラオス沖縄などに共通する音階がある。
 楽器形態、特に三線などは沖縄から南中国にかけて共通のものがあるが、
 その材料はメコン流域のものである。
 また、このエリアは竹を材料にした共通した文化圏を形成している。



4.生物地理学的考察
 マレー半島起源の芋文化と長江起源の水稲文化が交差した。
 日本の水稲文化は長江文明からもたらされた説がある一方、
 熱帯ジャポニカ産の存在が注目され、再びメコンから
 沖縄経由で北上したとも推察される。
 照葉樹林地帯は、南中国から沖縄をかすめ日本本土に至る
 広大な生物学的共有圏を形成している。



 一方、現在の気候分布、植物形態から推測すると、
 むしろ北部沖縄からミクロネシア、メコン北部にまたがる
 亜熱帯系植物圏を形成している。



 以上から推察すると、
南中国と東南アジア北部に、社会・自然の大きな潮流の違いが生ずる。
中国を南に行くに従い、日本的な何かを感じ、タイから北にいけば、
東南アジア圏を離れたプリミティブな何かを感じる。



この広大なゴールデントライアングルに魅かれるのは、
両者を遮り続けたもの、あるいは派生した源があるからであろう。
この付近の調査はあまり行われていないが、
いつかその秘密が明らかにされるかもしれない。
  


Posted by Katzu at 21:28Comments(0)アジア