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Posted by TI-DA at

2017年05月29日

インバウンドからアウトバウンドへ

 沖縄を訪れる観光客はまもなく年間1,000万人に達し、数字上は海南島、ハワイに並ぶ世界的な海洋リゾート地になることが確実視されている。特に海外からの観光客が増え、沖縄の日常生活の中にも、中国語もしくは英語の会話が聞こえてこない日は少ない。観光地ではすでに大半が外国人だから当然ではあるが、ここ数年来マンションや街角やスーパーでも聞こえてくる。
当初は違和感があったが、グローバル化が進んだ東南アジアの他の大都市と比べれば、むしろこれが当たり前である気がしてくる。



 先日、関西で観光ボランティアを兼ねるTさんと備瀬のワルミバンタに出かけた。海を割くモーゼの十戒を思わせるようなこの景観ポイントは、半年前まで知らなかった。それもそのはず、狭い道路奥の集落の御嶽であったのだが、いつの間にかGoogleMapにも載っていて観光客が訪れ始めていた。昨年、自転車で探して立ち寄ってみたが徐々に観光客が増え、今回は5台ほどの駐車場は満杯でピストン送迎するほどの賑わいだった。
彼は外国人グループに次々に声をかけていった。半分くらいは中国人・台湾人・タイ人で、彼らはSNSでここを知ったらしくパワーストーンと言われる石に手をかざしていた。



確かに中華系の人は風水や運気を重んじる人が多く、団体のツアーガイドがこの類のストーリーを作るケースはよくあったが、今は個人旅行が増えSNSで旅情報は拡散されていく。撮影するポジションを教えてあげると歓声を上げ、日本人を含め順番待ちするほどになった。
彼らは少なくとも日本に興味を持って、好き好んで来ているのだから、これからリピーターになるように話を聞いてあげている、と言う彼の姿勢は正しい。



現在、日本に来ている中国人は、上から10%の所得層を対象にその10%の約1,000万人が来ている程度なので、統計学上はこれから100倍のインバウンド効果があるという計算になる。
しかし、海外で観光客同士が一緒に盛り上げる姿に接するうち、このまま国内で海外観光客が増えても打ち解けられず、何か殺伐とした営利関係だけが進んで行っていいのだろうか。閉塞的な日本の慣習、日中関係、日韓関係、テロ等準備罪の施行がそれを邪魔することも確かだが、いびつな一方通行には違和感を感じる。



 インバウンドが浸透しないのは、アウトバウンドの経験不足によるものである。
最近、アジアの若者達に接して感じるのは、かつての優越感どころかその態度と国際感覚に驚いてしまう。年寄りばかりの日本は間もなくおいて行かれるというのは本心で、危機感さえ感じている。だから『ウェルカムでインバウンド』だけでは片手間で、『相手を知るためのアウトバウンド』が必要なのである。



 日本人の海外への旅行者数は年間1,600万人で、20年前からあまり変わらない。その内容は、個人旅行が増えたとはいえ、依然として日本人向けパッケージツアーが多く、業者がトラブルを避けるためにローカルに接する機会も少ない。これからは団塊世代の個人型旅行の需要が拡大し、アウトバウンド効果が予想できるが、むしろ重要なのは若者の方で、外的志向が助長されなければ、ますますアジアからも置いて行かれるのは大人以上に深刻だ。




 沖縄にいると次の時代のアジアの姿がおぼろげに見えてくる。
昨日、古宇利大橋の上で、のんびり歩くカップルがいた。珍しく英語の通じない韓国の若者で、代わりに『ガンバレ』と言って送り出してくれた。海外で出会った韓国人の多くは高学歴で英語が堪能だったが、日本以上に学歴社会の韓国では大多数の若者は生活が厳しく、近くの南の沖縄にハネムーンに来たという構図が浮かんでくる。

  


Posted by Katzu at 22:04Comments(0)ビジネス環境

2017年05月15日

雪国のサクラデザイン



3月13日、名護に戻るとまだサクラは咲いていた。
ヒカンザクラの開花は、実に2か月続いたことになる。



2日後、山形ではまだ真冬に咲くユキヤナギの花が川原に咲いていた。
雪国の桜は雪が消えると、待ちわびるように一気に開花し、約2週間で開花期間は終わる。10年ぶりに開花から散花までをすごした、郷里の馬見ヶ崎川のサクラデザインを振り返る。



4月10日、朝、窓から見える川原のサクラは一気に開花して、冬ごもりは終わった。



春一番を告げるイヌノフグリの花もサクラに合わせると美しい。



春一番のツクシも同じく春らしいデザインである。



シバザクラとソメイヨシノの組み合わせもいいが違和感を覚える。


 何となくこれらの風景は春らしいと感じるかもしれない。しかし、通常はイヌノフグリ⇒ツクシ⇒ソメイヨシノ⇒シバザクラの順に開花(土筆は胞子蒔き)するので、今までは同時に開花するという印象はなかった。今年は冬の平均気温が高く、春の寒気の到来が一気に開花を促した結果であり、これも地球環境の変化がもたらしたものである。



1km続く満開のサクラのトンネルは、早朝を除き自然渋滞が発生する。




歩道のサクラのトンネルは更に見事である。建築限界の車道側を伐採した結果、川側に枝が垂れ下がる。しかし、根が張り路面は凹凸し、夜に走るのは危険である。さらに観光としてのデザインを考慮すれば、ガードパイプが残念である。安全な法面の上でさえガードパイプを設置するのは、日本の管理行政の最も醜い例である。
桜の寿命、道路河川の維持管理はもうこれが限界で、その最後の輝きを見ているという感慨に至る。



実はとうに寿命を迎えた下流側の古木にも味がある。
ソメイヨシノの寿命は50年程度で、下流の昭和初期に植樹されたソメイヨシノは既に寿命で、徐々に上流に植樹されていった結果、現在勢いのあるサクラは60年代に植樹されたもので、サクラの隆盛は年々上流に移動している。



宴会場を設けなくても、カモの流れる河岸には自然に花見客が集まる。



幼少の頃は川原を歩けば必ず知り合いに会い、夏休みは毎朝ラジオ体操に出かけたものだ。年齢層もインフラの形もすっかり変わったが、変わらないものがある。

サクラデザインの美しさは、サクラ単体のみならず借景で決まる。



対岸のプールわきの公園にはヒガン桜が混じっており、里山の借景を意識した設計者の意図が感じられる。昔はこれによく似た山桜が自生していたが、ソメイヨシノ全盛の現在はむしろ作為的なものを感じてしまう。




福島の花見山が最も日本の里山らしい風景と感じたと同様に、山形のサクラが最も雪国らしい風景と感じるのは、川、サクラ、雪山の3点がセットになっているからである。


サクラの花はつとめて、横から光が差し込む頃に映える。



     西の朝日連峰



      北西の月山



       北の葉山



   東の北蔵王連峰の雁戸山

時を失したが、東の蔵王山系は夕日に映える頃が良い。

四方に名だたる百名山を望めるサクラスポットを意識する地元市民は意外に少なく、むしろ観光のキャッチコピーとしては海外にも十分アピールできるだろう。ソメイヨシノの回廊デザインは、派手で栄華の一瞬を表し人を引き付ける魅力がある。



町内を歩くと、歴史的に松原の地名の語源になった古い松林に咲く近所のサクラが、緑の背景に浮かぶ最も安定したサクラデザインである。


       夜の桜はさらなり

車窓から見る夜桜のトンネルも有名で、開花期は自然渋滞が起きる。
夜店と駐車場がないと家族、若者が集まらないだけで、桜自体の美しさは変わらないはずだが、歩行者は車のライトが夜桜見物の邪魔になる。




市内の夜桜は霞城公園が有名である。
隣県の高田の夜桜は、ライトアートとして海外にも人気がある。


      2016 高田公園

桜の散る姿は、日本人の死生観に訴えるものがあると言われるが、海外ではむしろ楽しむ姿を目にする。サクラが散る姿を見る時間は短かく、今回は車窓から見ただけだった。


夜桜はライトに照らされ、流れ星のように散って行った。



雨がしたたり落ちる満開のサクラから 
4月28日には一気に花びらが落下していた。


       雨うち降りたるつとめて


    サクラの道にはワダチができていた。

  


Posted by Katzu at 20:35Comments(0)環境デザイン

2017年05月03日

非武装中立地帯の街づくり

 都市計画は軍事理論から派生したものだが、戦後の日本では戦争に加担する科学や知識・技術は否定され、有事を見据えた街づくりなど考慮する人すらいない。



北部ベトナムを旅すると、寺院に比して墓地が多いことに気が付いた。ベトナム戦争での死者数は、ベトナム人800万人、うち民間人は450万人、その後の枯葉剤による死者や行方不明者を加えれば、戦争前の人口が4千万人程度なので約20%の国民が亡くなったことになる。太平洋戦争での日本の死者数は310万人で国民の5%が亡くなっていることを考えれば、沖縄戦並みの局地戦が全国で起きたような凄惨な戦争であったといえる。



アメリカ軍による北爆は、223万トンの爆薬と1000機以上の航空機の損失という史上最大の無駄使いであった。ハノイは北爆の目標ではあったが、インフラ破壊が第一で、ソ連の支援による対空防御が強固で米軍の航空機の損失が多かったと言われる。



その爪痕はハノイの軍事歴史博物館で見ることができる。国威発揚とは言え、ベトナム戦争の歴史だけでなく庭には米軍機の残骸がそのまま展示されている。特にベトナム戦争の象徴とも言うべきUH-1ヒューイは、米軍の中心的ヘリコプターで、その多くが撃墜され放棄された。



ラオス国境近くのホーチミンルート沿いには、戦争の痕跡が今も残る。DMZ近くで激戦となった米軍のケサン基地は、撤退当時のヘリや輸送機が残り屋外博物館となっている。



戦闘壕は土嚢だけでなく、内側は鉄板をI型鋼で抑えていた。




 北爆下で人々はどんな集落を作り、生活していたのだろう。
戦時下の村が、フエ北部のかつての非武装中立地帯(DMZ)近くに残されている。ベトナムのDMZ(De Militarized Zone)は北緯17度線のベンハイ川沿いの地帯である。現在DMZと言えば、主に南北朝鮮半島の国境地帯のことを指す。




 ピンモック村は旧国境の17度線の少し北側にある漁村で、敵の上陸と爆撃に備え、村から海岸までトンネルで通じている。そのトンネルの配置は網状というより、人々がすぐに1か所に集まり、四散できるような構造になっている。



地上の移動は塹壕が張り巡らされ、実際歩いてみると、かくれんぼの時のように敵の鬼の動きがよくわかる。



この村は爆撃がある時は地下に潜り、長期生活が可能であった。地上に住家はなく、出産や教育も戦時中は壕の中で行われた。
トンネルの高さは高さ170cm、幅1mほどである。つまり、6フィート以上の太ったGIは通れない。



ここは地下の都市空間でもあり、通路や集会所も含め、地下3階構造になっている。この複雑な地下空間を短期で構築できたのは、粘土層の地質のため柔らかく手掘りできたためである。
同じく地上戦が行われた沖縄でも地下空間を利用した自然のガマがあるが、琉球石灰岩は鋭利で堅く、手掘りでは自由に掘削できない地質であった。



 このDMZの村から学ぶべきことがある。
都市の基本は、防御と避難である。
その意味においてこの村はよくできている。
少なくても、敵が来ても集まれず、逃げる場所もわかない平和日本の街より、システム上は強くできている。



ベトナムの街は、間口が狭く奥に長い、いわゆるウナギの寝床の宅地形状に、1、2階建てのモルタル・レンガ造の家が張り付き、家の間には所々に狭い小路が通っている。背後に田園の広がる農村も同様で、家は狭く違和感をおぼえる。その理由は社会主義的な最低限の統一仕様とも、東からの台風対策のためでもあるが、外敵から身を寄せ守り、裏の農地や防空壕に逃げ込むにはこのシステムが一番強いことに気が付いた。これも戦争から得た知恵かもしれない。




 日本の都市は、戦後の高度成長時代から経済的に大量に土地を生み出すことを目標に、格子状の道路に矩形の宅地を効率よく供給してきた。国や公団のマニュアル通りの計画が間違いだと気付いたのが大震災で、多くの計画屋は外敵(津波)から守り、一堂に安全な場所に避難するという街づくりを怠ってきた。



津波対策にしても、高台移転、宅地のかさ上げ、大防潮堤、国道の高盛り土は、地域によっては必要であるが、津波(敵)が来たら、公園の山(防空壕)に避難するという防御・避難の街づくりを基本にするべきだったと思う。



 街の中心のシンボル公園を中心に扇形に街区を設計したことがあるが、道路は曲線となり街区点が増え、実施に至るまでは多くの説明と理解が必要であった。ヨーロッパの中世都市のように、敵が近づけば城塞で守り、街の中心広場に最短の道で集まり合議し、四散する道を確認できる都市構造は、防御と避難に強い街なのである。



日本でも城を中心とした城下町の街づくりシステムが見直される時代が、いずれ来るかもしれない。

北朝鮮のミサイルが発射されても実感がなく、最も安全であるはずの地下鉄が停止し、メディアに右往左往するだけの今の日本は本当に平和なのか、憲法記念日の今日、想う。




  
タグ :まちづくり


Posted by Katzu at 19:29Comments(0)まちづくり