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2011年10月30日

最後のプロテストソング

 

 オ-リアンズのジョンホールの創ったパワーという曲がある。
この曲は1979年のノ―ニュークスコンサートでのライブが有名である。
当時のウェストコースト音楽は、ヒッピームーブメントも終わり、
輝きを失いかけていた。
この歌は、日本では本国ほど話題になることはなかった。
反原発を歌ったこの歌の内容を知ったのは、つい最近のことである。
アメリカ人にとって、スリーマイル島原発事故の影響は大きく、
各地で市民運動が起きていた。



 CDのライナーには、原子炉格納容器と冷却装置の危険性、
避難エリアの想定まで書かれていた。
同じ構造のカリフォルニア、日本の原発の危険性まで指摘している。
その後、地震の頻発するカリフォルニアで、同構造の原子炉は建設されず、
福島原発始め、日本の10基の原発がそのまま残った。



 70年代当時、なぜこの歌に耳を傾けず、知識も得ず、
何もできなかった自分が悔しい。
この曲は、ウェストコースト音楽が最後に残したプロテストソングだった。
30年後の日本で、この歌は、反原発のテーマソングとして蘇る。

 3.11以後、ほとんど毎日、朝走っている時、車の中で、夜眠る時、
心の中でも、この歌は飽きずにずっと流れ続けている。
同時に歌われたジャクソンブラウンのBefore The Delugeと共に、
津波と原発事故の映像がデジャヴとなり、
PSDのようにどうしようもなく落ち込み、
そして高揚してしまうのだ。

Just give me the warm power of the sun
Give me the steady flow of a waterfall
Give me the spirit of living things as they return to clay.
Just give me the restless power of the wind
Give me the comforting glow of a wood fire
But please take all of your atomic poison power away.

Everybody needs some power I'm told
To shield them from the darkness and the cold
Some may see a way to take control when it's bought and sold.

I know that lives are at stake
Yours and mine and our descendants in time.
There's so much to gain, so much to lose
Everyone of us has to choose.

Won't you do this for me?
Take all of your atomic poison power
Take all of your atomic poison power
Take all of your atomic poison power
Away.

                Power:Jhon Hallの歌はこちら

少しだけ僕に暖かい太陽の光をください
絶え間ない滝の流れる力をください
生き物が土に帰るように僕に魂をください
少しだけ僕に休む間のない風の力をください
ちろちろ燃える焚火の安らぎを僕にください
でも、原子力の毒の力は捨て去ってください

誰でも少しの力を必要とします
暗闇と寒さから身を守るために
それが売り買いされるとき
誰かがそれを制御する方法を見つけるでしょう
僕は生命が危機にあることを知っています
あなたと私のこれからの子孫に
得る物は多く、失うことも多いけど
我々みんなが選らばねければならないのです

僕らのためにこれをできませんか。
原子力の毒の力は捨て去ってください
             (対訳Katzu)

 パラオのモーテルに数組、沖縄にも多くの、
被爆を怖れた親子が避難している。
児童に対する被爆の不安は、母親の幼児に対する思いだけでなく、
子孫にまで未来永劫続くものだ。
今の安全性だけでなく、これからの出生率、白血病の発生率、
奇形の発生率などが相対的に危険域なのだ。

原子力の方がはるかに安いエネルギーだという説明は論外で、
生命を脅かすエネルギーは認められない。

 原発賛成の人達とは、明るい未来も、子孫繁栄も、健康も、自然の恵みも、
何も感じない可哀想な人達なのだろうか、と思ってしまう。



 今朝、3kmも離れていないホワイトビーチに、原子力潜水艦と
自衛隊のイージス艦と護衛艦、6隻が停泊していた。
いつも核と隣り合わせの沖縄県民も、放射能の不安を感じ生活しており、
原発を押しつけられている、北陸、東北と似ている構図だと感じた。



  


Posted by Katzu at 14:55Comments(2)原発

2011年10月27日

港川人のなぞ

 八重瀬町港川港に近い現場から、1億8千年前の港川人の化石人骨が
発掘されてから、40年も経つ。
現場は港川港からほど近い所にあるが、その資料は、
八重瀬町具志頭歴史民俗資料館に展示されている。
維持費を節約しながら、運営に苦慮する地方によくある、立派な博物館であった。
レプリカであろうか、当時は人骨の保存状態が良く、
ほぼ全身の形で発見されたことに驚く。



 骨格研究の成果は顔の復元によってなされ、骨格は中国南部の柳江人や山頂洞人
とは違い、インドネシアのワジャク人と類似していることがわかった。
この博物館のモンタージュは、琉球人をベースに作られているが、
別の機関のモンタージュでは、東南アジアからミクロネシア系の顔であった。
当初、紹介された胸像はどこか、沢穂希に似た東南アジア系であった。






そう言えば、パラオ人の同僚にも似たような顔の人がいた。



 港川人は縄文人との類似性もあり、原日本人の基盤を形成したという
論述もあるが、現在までの通説は、琉球から北海道まで縄文人が
住んでいた縄文時代以後、朝鮮半島から渡来した弥生人が本土日本人を
形成したとされている。(国立博物館展示)



現在の遺伝子分析によるとアイヌ・日本人・琉球人のGm遺伝子配列は似ており、
高砂・漢民族とは絶壁のような違いがあるという。



 港川人は、華南の集団や、台湾の古来からの先住民高砂族に遺伝的に近いと
思われるが、彼らの遺伝子が先島諸島から沖縄諸島、さらには日本列島の集団に
入ったという遺伝子上の証拠はない。(伊藤俊幸氏)

ならば、港川人はどこに行ったのだろうか。

南方からの海上の道はとだえたのであろうか。

推論ではあるが、港川人は、アフリカを起源とする人類の移動の末端にあたる、
台湾高砂族、アボリジニと同じ位置付けの種族だったのではないか。
種の起源探しではなく、エンド オブ トライバルの研究はこれからだ。

  


Posted by Katzu at 04:52Comments(0)沖縄

2011年10月25日

ニライカナイはパラオ人



 二ライカナイとは沖縄に伝わる、海の向こうの浄土の意味で、
かなたの根の国が語源とする説がある。
柳田國男海南小記にはこのことが触れられており、
八重山の南波照間(パイパティローマ)伝説とも呼応する。
しかし根の国は、日本人が死んで地下に行く所で、南方から
あるいは日出づる国からやって来る宗教観とは違う。



一方で、儀来河内という字をあてている例もある。
南城市の受水走水(ウキンジュハインジュ)の案内板には、
琉球国由来記の引用でギライカナイと記されている。



 大震災の被災地を調査して歩くうちに、その土地の地名の持つ言霊に、
驚かされたことがある。
言葉にその土地や人の歴史、想いが込められていたのである。

 二ライカナイとは、発音が同じNgirai Kanaiというパラオ人の
名前であると推測される。

パラオ語はから始まる音が多く、非常に聞き取りにくい。
接頭語がNgで始まるので、二ライともギライとも聞こえる。

私のパラオ人の同僚はNgiraibai(二ライバイ)と言い、
Ngiraiを冠する名前は他にも多い。
ファミリーネームのKanai(カナイ)も一般的で、アイライ州の州知事や
上院議員のカナイさんが有名である。
パラオは日系の名前が多いが、戦前からあった名前だという。
ちなみに彼の息子の名はニラロイ・カナイという。

 パラオは3000年前に、南中国から文明が伝わり、ミクロネシアでは最も
古い歴史のある国で、縄文時代に、既にパラオ土器が産出されていた。



 太平洋の海流の流れを見ると、黒潮はフィリピン、台湾方面から
沖縄の西海岸を北上し、伊良湖岬に達する。
柳田國男の拾った椰子は、フィリピンからであった可能性が高い。
沖縄の東海岸と久高島にたどり着くには、沖縄本島を北から1周するか、
南からの黒潮の一支流に乗るしかない。
その先は2000km離れたパラオしかない。

一方、八重山近海には黒潮反流という南向きの海流がある。
パイパティローマを信じた波照間島の住民の向かった先は、
台湾ヤミ族の住む蘭嶼島と言われているが、黒潮を横断しなければならない。
それ以外の南の島はやはりパラオだけである。

 沖縄の久高島に漂着したパラオ人のNgirai Kanai
持ち込んだ道具や技術が、古代沖縄に影響を与えたとしても、
おかしくはない。

 今までのニライカナイやパイパティローマ論争に、
パラオの名が出てこなかったのが不思議である。  


Posted by Katzu at 14:04Comments(0)沖縄

2011年10月24日

山羊の数奇な運命---山羊サミットより



 最近は山羊に関わることが多く、明け方、夢にまで出てきて、
山羊の鳴き声を聞きながら目が覚める。

 山羊のイメージはあまり良くなかった。
息子の通う保育園の山羊小屋の掃除が嫌だったこと、
教会の悪魔の絵が山羊だったこと、自然放牧により生態系を破壊するため、
世界の侵略的外来種ワースト100に認定されていることなどが理由であった。

 山羊や羊は豚牛よりも歴史が古く、古代文明の衰退は、森林伐採と羊と
山羊の放牧による、自然破壊が原因だったと言われている。
羊は狼に食べられる可哀想な存在、山羊は何でも食いつくす邪悪な存在として
宗教的な解釈がされたのだろう。
尖閣諸島の魚釣島は、与那国島からのたった1対の山羊放牧により、
30年後、今では200頭の山羊に占領されている。

 先月パラオに行った時、こんな記事がローカル紙に載っていた。
資源・環境・観光省のフリッツ大臣が、山羊120頭、椰子10,000本を輸入し、
各州に分配するという。
畜産体制の整わない小さなパラオで、各州がかってに放牧したらどうなるか。
野生の鶏が繁殖するパラオでは瞬く間に増え、島は赤土化してしまうだろう。



 第13回全国山羊サミットが那覇で開かれた。
会場のてぃるるに行くと山羊はいないのに、なぜか山羊の匂いが漂っていた。
サミットの内容は、山羊文化の残る、日本一生産の多い沖縄での畜産体制、
商業化、病虫害、山羊の性質、成分についてであった。
この会議は、先月パラオ仲間のマホさんから、メールをもらって思い出した。
彼女は豚から山羊へ、育てる対象が変わっていた。
テーマは耕作放棄地などでの山羊放牧事例で、山羊の性質を逆手に
取ったようなアイディアで、緑地保全に役立てそうだ。
一緒に活動した仲間が、こうして活躍する姿を見るのは、何よりも嬉しい。



 市街化区域内の畜産は、衛生・匂い・騒音問題などで郊外に追いやられたが、
動物セラピー効果、手付かず庭の管理など、レンタルでの利用などに
ビジネス可能かもしれない。



 次の日は沖縄山羊フェスティバルが奥武山公園で行われた。
山羊の品評会や山羊汁、山羊ミルクの販売なども行われた。
会場では県の産業祭りが行われていた。
こちらでも、かなりの屋台で山羊汁も一緒に販売されていたことに、
驚いてしまった。



 じいさんに似た山羊を見て、山羊ミルクを飲んでいると、
母乳に最も近い成分で、戦後の食糧難の時代を
支えていたと言う昨日の話を思い出した。
山羊が人間臭いということが、家畜として
人を遠ざけてきた理由なのかもしれない。
  


Posted by Katzu at 13:50Comments(0)街の環境

2011年10月21日

那覇のマチグワ―ラビエンス

 街歩きが好きである。
特に那覇の街で言えば、国際通りの裏側、壺屋あたりにかけての
マチグワ―周辺の小路が楽しい。
自分はおもろまちのような新しい街を、造ってきた人間だが、
歳を重ね、震災を経験したりすると、ずっと街を守り見つめてきた祠や木、
古民家に愛着を感じてしまう。



桜坂にチケットを買いに出かけた。
隣の公園に寄る。
ここのロケーションは良いが人は少ない。
来た目的は大きなガジュマル探しであった。
ガジュマルはあったが、ソバ打ちに使う肝心の枯枝はなかった。
この公園は珍しく緑の大木が残った数少ない場所で、
様々な都市伝説を生んだ。
遺構も見つかり都計3・5・那15号は大きく迂回した。
都市計画図とここからの都市景観を見比べると、
那覇の街づくりの課題がほとんど見えてしまう。



奇跡の1マイルの裏側は、容積制限の甘い商業地域と
壺屋の都市景観形成地域が隣合わせにある。
これを分断するのが、建設中の都計道路である。



これが現都市計画制度の限界かもしれない。
それは、マチグワ―再開発を見据えた都市計画である。
いずれ、その選択の時が来るのだろう。



 建物配置のばらばらな所を狙って歩くと、間違いなく、
ラビエンス(迷宮)に迷い込む。
体も分かれそうな鋭角の交差があったり、行き止まりかと思いきや、
幹線道路が見え、思った通り繋がっていたりする。
しかも階段である。
戦災を免れた建物も多く、昭和の人口密集地帯が思い浮かぶ。



 先の希望ケ丘公園に戻ったが、多くの都市公園に共通の課題が気になる。
景観的に優れた場所にありながら、町裏の汚さが目立つ。
低木で境界をはっきりさせるべきだろう。
死角が多く防犯上も問題である。



ノラ猫が多く臭い。弁当を開く気になれない。
猫の愛好家がここは天国だと、餌を持ち寄るブログを発見したが、
基本的にいけない。
猫はもともと好きでなかったが、世話する人が居なくなり、
結局最後まで面倒を見て、心痛を極めたことがある。
捨猫はいけない。



 マチグワーの方向に降りて行くと井戸があった。
そこは花笠食堂のちょうど裏だった。
昔から井戸を使える好位置にこの店はあったのだ。
いつものイナムルチと煮付け定食を食べて帰った。
話題のアイステーが、最近あまり甘くなくなった。

  


Posted by Katzu at 13:10Comments(0)まちづくり

2011年10月19日

忘れられたパラワンオキナワン

 世界のウチナンチュ大会が開かれた。
海外のウチナンチュは36万人いるという。
沖縄県人の3分の1は海外にいることになる。
東北地方も、海外の開拓団に参加した人は多いが、
その多くは土地を持たない農家の二男、三男で、
沖縄とは規模も事情も少し違う。



 世界のウチナンチュ世界・平和・未来展が、JICA沖縄主催で開かれていた。
世界のウチナンチュ分布図を見ると、ほとんどが県人会を組織する国で、
パラオは一人もカウントされていない。



 パラオは他の県人会のある国とは、事情が異なる。
パラオには沖縄姓の人が多い。100名は下るまい。
明らかに日本人の血を引く人もいる。
敗戦後、パラオ在住の日本人は全員、本土に帰された。
パラオは基本的に母系社会である。パラオ人女性は一族を守り、
日本人の父親だけ帰国したケースも多い。

 古い三線を人づてに探すうちに、何人かの沖縄姓のお婆さんと会った。
沖縄に行くと話すと、兄弟に元気だと写真を渡してくれと頼まれたこともある。
沖縄では一族の姉妹が迎えてくれ、お土産を持たされパラオに帰った。

パラオである女性の話を聞いた。
彼女は父に会いに日本に行ったが、会わせてもらえず泣く泣く帰国したという。
もう、これ以上は個人的に入り込めないと思った。

 パラオは終戦後、日本に帰属させて欲しいとアメリカに嘆願した国で、70年代、
非核憲法を盾に、アメリカの核拡大にNOを突き付けた初めての国でもある。
電話帳を見ると、日本名が多いのに驚くが(1割位)、日本人の偉人、軍人を
命名した場合も多く、必ずしも日系ではない。
沖縄の門中と同じく、名は血縁を表していない。
これを礼賛、美談化する輩もいるが、事実は多くの悲劇を生んだ。

そして、日本人はこんな日系パラオ人を忘れてしまった。

私はアイデンティの失われつつある、マイノリティとしての
パラワンオキナワンに、深い同情と愛惜を感じる。



 最近日本名のパラオの子供たちは、日本の文化に興味津々である。
ヒガさんの血縁のシンガーのタカは、三線に興味を持ち始めた。



 PCCのモモタロウ君は、日本語も英語も堪能で、大学の
代表として日本を訪れ、発表を行ったり、東北の被災地も
視察してきた。
彼は日本で見た大震災の状況を、なんとかパラオ人に
伝えたいと熱っぽく語ってくれた。


 きっと彼らの世代が、次回の世界のウチナンチュ大会
などの国際イベントや、シンポジウムなどで、
日系パラオ人の存在を日本人に示してくれるだろう。

  
タグ :パラオ沖縄


Posted by Katzu at 13:30Comments(0)パラオ

2011年10月17日

ワールドビジネスフェア



世界のウチナンチュ大会に合わせ、沖縄べンチャービジネス企業の
イヴェントが宜野湾で開かれた。
参加企業は60以上、海外からの参加も多く、
大学やJETROが協賛、後援している。



 沖縄のベンチャービジネスの特徴は

1、アジアの中心の位置的有利さを活かしたグローバルなもの

2、沖縄の自然のエコロジカルな特殊性を活かしたもの

3、沖縄の産業構造、とりわけ観光産業に付随したもの

この3つの優位性を武器に、創出した企業が多い。
何社か話を聞くうちに、2年前の海外生活の中で考えていた、
あるいは関わりをもったアイディア・技術が、
すでに市場に出回ったスピードに驚く。

 中国大蓮で翻訳、通訳、人材派遣を行う、ATENDの女性代表は、
「私も帰国組で仕事がなかったから、同じ立場で働く人を探した。」という。
中国向けのパンフレットをつくり、日本の企業を紹介したり、日系企業の
人材派遣を手助けするという、沖縄というポジションも活かした好例である。
グローバルな人間関係が生みだす、これからの分野である。
                        
 健康ブームを受けて、沖縄の動植物は本土にない神秘性もあり、
次々にヒット商品を生み出している。
今年の目玉はクワン草月桃である。
3年前パラオでこの薬草の話を初めて聞き、
大学の先生の依頼で調べたことがある。
月桃はパラオ他の南洋にも自生するが、現地の人はその効用を知らない。
このような島の宝は、まだまだ南洋を含めたくさんある。
知的財産権の話もあるが、まだまだベンチャーは続くだろう。
                    
                           クワン草普及協会はこちら

 赤土の流出対策バイオエネルギーなど、南洋で必要とされる環境技術は、
数年前から紹介されているが、沖縄の企業はそれを短期間で商品化した。
具体的に必要としている島嶼国は多く、これらを環太平洋各国に
アピールすれは、環境ビジネスをけん引する可能性がある。



 沖縄の自然や観光を、紹介したり、支援する団体は数多いが、
多くはNPO法人か、役所の商工課の出張団体であったりする。
これらを模索しているが中々形に現れない。
その中である種の可能性を感じさせる会社があった。
沖縄観光案内所EarthTripという株式会社である。
一見、普通の観光斡旋業のように見えるが
観光に関した案内、開発、調査、企画運営を行う。
本土では、イベント屋、調査コンサルタントなどの会社以外は、
NPO法人が行うケースが多いが、この民間ビジネスが成り立つのは
沖縄ならではの特徴である。
                         EarthTripはこちら  


Posted by Katzu at 20:14Comments(0)ビジネス環境

2011年10月16日

パラオの未来

 1年間でパラオが変ったのは、意外にも日本人観光客の増加である。
震災の影響で海外への旅行者は全体で6%減少予測がでたが、
パラオは前年比で40%増というデータもある。
これは3年前に既に予想していた。
答えは簡単で行き慣れたグアム、ハワイよりもパラオの方が
未知の自然の魅力が詰まっているからである。

 パラオは観光の国である。
中心都市のコロールが安全で美しい街になることが、
さらにこの国の発展を約束する。
パラオオリジナルのお土産も増え、魅力的な
観光客向けのみやげ屋も増えている。
歩道の花壇BOXに花を植えたとPCC学長は自慢していた。
地元学校や青年団?のボランティアによる清掃なども行われており、
ごみの4R活動も行っている。



 実際はどうなのだろう。パラオ最後の朝、
ガソリンを詰めるついでに、ごみ拾いに参加した。
このような活動で、目につくのは欧米人で真剣に分別している。
パラオ人はもとより、公園を一番多く利用するフィリピン人はゴミ拾いに
参加すべきだが、朝からグループで公園に集まって涼んでいる。
最も、安い給料でパラオの労働を担っているのは彼らで、週1回の休日を
公園で仲間と過ごすのが、生活の楽しみだから仕方ないだろう。



 公園のごみは意図的に投げたというよりは、空き缶、ビニール袋、
アメの包みなど生活慣習として、自然に悪気なく捨てたものが多い。
これは次世代への教育・指導しか方法はない。
日本の場合は、まとめたファーストフードのごみ、
ビニールに詰めておいたもの、電池など捨てるのに面倒くさいものなど、
捨てるのは悪いことは教育上知っているけど、少し気配りしました、
というような確信犯が多い。



 公道のごみを片付いていくが、民地のごみ溜りが気になってしまう。
パブリック空間とは、道路から見える景観のことである。

サンゴの生育する海沿いの道を行く。
平均的な日本人ならこんな海に、殺風景なホテルを作ったり、
ごみを捨てようなどとは思わないだろう。



このような活動も、犬の散歩ついでに来た主婦、買物ついでに来ました娘、
観光ついでに来ました風でも、何でもありで、楽しんで欲しいと思った。







 大国の狭間で生き延びなければならないパラオは、
観光立国の宿命で、足元と背中を見せることから
街づくりを始めなければならない。





  


Posted by Katzu at 03:23Comments(0)まちづくり

2011年10月15日

パラオのサクランボ

 

 パラオの街を歩くと、様々な花やフルーツを見かける。
南洋特有のものばかりだが、ミューンズの坂道の途中に
サクラの木があり白い花が咲き、サクランボも実っていた。
そう言えば、ちょうど雨季で寒いこの気候は、
サクランボの季節の東北の梅雨中ごろに似ている。
花と実が丁度一緒になっていた。
食べると少々甘く、すっぱい味がした。
まぎれもなくサクランボだった。





 道路沿いにバナナやマンゴウ、ノニ、ビンロウ椰などがある。
コロール周辺は持ち込まれた外来種が多い。
パラオ特有の花は少なく、
ロックアイランドの中では、クチナシモドキくらいである。



パラオ本島北部に行くと、花の種類も減り、
変わった植物は食虫植物のウツボノカズラがある。
虫も中に入っていなくて、指を入れても食べられなかった。



ワラビと同じ形のシダ類があったが、煮て食べたら
同じ味がしたが、堅くて食べれなかった。



白いガクの花、ランの種類ノ花がある程度である。
季節のメリハリがないので花が咲く、散るという風情はない。





知人のサクランボ農家に、沖縄での作付を提案した。
真冬の季節の1個1000円もする、ビニールハウス栽培をするなら、
沖縄でどうだろう。と。
寒暖の差が小さいので、甘くならないだろう、ということだった。
パラオのサクランボも同じ味だった。

  


Posted by Katzu at 00:44Comments(0)里山の環境

2011年10月13日

パラオ焼の新展開

 

 台北の故宮博物院を駆け足で廻った。
1階を1時間かけ、3階を3時間で見た。
全部見るには8年間かかると言われているので、駆け足である。
ここの展示品は、蒋介石が中国から持ち帰った、
本場北京よりも貴重なものばかりである。
特に、中国の陶磁器の歴史には深く感銘してしまった。
唐代の陶器の、緻密で繊細なデザイン、そして行きつくのは、
宋代の青磁、白磁のシンプルな美学である。
現代の中国人にはない、感性と技術である。
彼らは、いつからこの繊細さを失ったのだろう。
今年中国は、辛亥革命100周年、台湾は建国100周年を祝う。



 パラオ国立博物館の展示は大きく変わった。
入場料をしっかり取り、撮影禁止になっていた。
2階部分のテーマは「パラオとドイツ」のディスプレイになっていた。
前日は行けなかったが、バイロイト大学のヘルマン教授が
「ドイツとパラオの協働の時代」と題した講演を行っていた。



 1階部分はパラオ焼のワークショップの経過と成果が展示してあった。
焼物は80年代にパラオハイスクールで教えられた時代があったが、
30年近くワークショップすら開かれていなかった。



 それが何かのきっかけで、博物館を中心に今年、盛り上がったようだ。
私が帰った半年後、粘土探しを行い13のサンプルを試したようだ。
そして、本格的に陶器を作ることを目的に、台湾の陶芸家を招き、
現代の技術で、古いパラオ焼に似せた土のランプなどを作ったようだ。
出来具合は古いパラオ焼より、繊細できれいだが、
土の感じは似た風合いに仕上がった。

 我々の行為が無になることなく、興味を持ったパラオ人が現れた
ことで、救われた思いがする。

 これらの作品は数多く展示してあるので、
一度パラオ焼に挑戦したメンバーは、覗いて欲しい。
歴史的な背景、繋がり、素材、野焼きの仕方などは、
まだ未知で、これから深く掘り下げた研究がされていくだろう。
  


Posted by Katzu at 22:55Comments(0)歴史遺産環境

2011年10月12日

パラオの自転車生活

 沖縄に戻ると、パラオと何が違うのだろうと思う。
2週間見られなかったテレビ?便所から出て思い出したウォシュレット?
店員のあいさつ?日本でしか使えない携帯?せいぜいこんなものである。
海の青さ、車の多さ、夕立、半そでパンツ、着る物食べる物も
気候もあまりパラオと変わらない。
そんなパラワンライフをフィードバックしてみたい。



 今回は自転車を持ち込み、自転車で移動生活することを試みた。
日本人なら、こんな小さな島で3km程度の移動なら、
自転車で十分と考えるだろう。
当時、自転車の有効性を説いていたので、自転車通勤も
考えたが、レースや練習以外は、使わなかった。



実際パラオで日常的に自転車に乗っているのは、
若い日本人とバングラ人など少数である。
それぞれ理由が違うが、その他の人々はほとんど乗らない。
その理由は、路肩が狭い、未整備の舗装、雨が多い、街灯が少ない、
盗難に遭う、などの外的条件に加え、着替えがいる、疲れる、
乗れない、などの内的条件が加わる。



 それを理解したうえで、自転車を日常で使おうとした。
しかし、その思わくは除々に崩れて行く。
今年は特に雨が多く、台風並みの風も加わった。
しかも寒い。明け方25℃を切った日もあり、風邪気味だった。

ガソリン代が1.5倍になっても、人の生活は変わらない。
中心部に向かい、歩いて行ける距離でも、
多くの人は渋滞する車列に向かう。

 町なかで、自転車好きのフィリピノに声をかけられる。
帰る前に売ってくれと言われるが、値段を言うと
両手を上げ後ずさりしていった。
ギアに砂が絡むようになり、自転車がもったいなく感じてしまう。
買物や食事に行く時、鍵を2つ付けても目の見える範囲においておきたい。



こうして、パラオの自転車生活は1週間で終わった。
その夜、1日3000円のレンタカー屋に電話する。
沖縄の自転車生活と同じ結果となった。
その主原因は、沖縄の場合は風、パラオの場合は雨であった。

 エコな生活とは、生活の消費を抑え、
他の生活の向上につなげるべきものであるが、
現実的には、余裕のない生活から、
生活を変えて、エコを生みだすのは至難である。
  
タグ :エコパラオ


Posted by Katzu at 17:42Comments(2)エコ

2011年10月10日

パラオ最高峰登山

 

 パラオの最高峰は、ゲルチェレチュース山(242m)である。
5年前のガイドには最高峰は聖山ルイスアルモノ山となっており、
その時は新しい最高峰発見か?と内輪で話題になった。
でも、意外にこの山に登った人は少ない。
前にグループで行ったが、道がすべり途中であきらめた。
いつでも行けると思い、2年間が過ぎてしまった。
無知な旅行者の立場の気安さもあり、
午前中だけ空いた、帰る前日に出掛ける。
持物は、水と滑らない靴と合羽、傘は落雷の危険があり厳禁である。

 山はアルモノグイ州にあり、入り口はコンパクトロードの
ガラスマオの滝の手前にある。
石畳の旧道が平行に走る、コンパクトロードの
直線道路の最高点付近である。
この周辺は低木地帯で、野火?で土地が焼けている。



 コンパクトロードを直角に西に曲がり、車で行ける所まで入る。
私有地、管理地の柵などはない。
石畳を越えて進む。
この石畳は明治以前に造られ、ガラマオドッグまで
続いているが、海まで行った人はいない。
次回探検したい。
途中、ウンケシウ山というパラオ第2の標高の山があるが、
山を巻き、石畳をはずれまっすぐに西に進む。
道は凹凸がひどく、赤土で雨の日はかなり滑る。
大型4駆でも厳しい。



サバンナのような痩せた大地を行くと、丸い丘が現れる。
そこがパラオの最高点である。
汗をかき始めハイキングの気分になった途端、着いてしまう。



 最高地点には古い剣の代わりに電信塔があった。
1級基準点はなかったが、測量屋ならきっと点の記にしたと
思われる石を見つける。

驚くべきことは、大正10年に、既に大日本帝国陸地測量部
パラオの1/25,000地形図を作っていたことである。
これによると三角点はないが、ガラカウクウス山239.3m
単点表示されていた。

 頂上まではゆっくり歩いて40分程度である。
ここにはハブもクマも首狩り族もいない。
考えられるリスクは、ハチと雷くらいである。
頂上からは天気さえよければ、バベルダオブ島の北側の
ほとんどが360度見渡せる。



確かにルイスアルモノ山よりも高い。
国会議事堂も見える。
ガッパンからアルコロン、ガラルド、ニワールの海岸も
見渡せる唯一の場所であろう。



なぜここが観光スポットにならないのか。
それは所有権の問題か、単調すぎるアプローチのせいか、
やはりパラオのメインは海なのである。
観光的キャッチコピーを考えれば、魅力的である。
ここから数キロ南には、ゼロ戦の不時着ポイントがあるが、
付近にもきっと戦争の遺物はあるだろう。

ここに登り、パラオ随一、高い空間を一人占めすると、
パラオ本島のスケールを感じてしまう。
そしてわかったことは、
本島北側の痩せた山の環境は、海の環境と表裏一体を成す。
コロール周辺の大木のある島は、海の環境も変化に富むが、
この辺の海は海岸からリーフエッジに至る単純な構成となる。
海の透明度は高いが、生物の多様性はこの山同様に劣る。

 一度はこの単純な山から、Another Side Of Rock Island Palau
自然の構成を見て欲しい。
ここまで来ると、次回は、やはりたたりを祓い、許可を受けて、
聖山ルイスアルモノ山に登ってみたい。



昨日、KPCの委員と話していたが、台湾の花蓮が良いという話題になった。
海抜0mの花咲くサンゴ礁から4000m近い高山に登るそのルートを、
一度は登ってみたい。

  


Posted by Katzu at 19:41Comments(3)山の環境

2011年10月07日

パラオ お祭りの海

 今年の雨季のパラオは、例年になく風雨が強い。
ようやく台風が過ぎた今週も、雨と波が海面を打つ。
南西の風が吹く中、1年ぶりのダイビングに向かう。
天気は曇り時々雨時々晴れである。
パラオのダイビングスポットは、世界的に有名なブルーコーナーをはじめ、
島の西側に多く、この日は風を避け、ゲロンに向った。
初めてのポイントで、リクエストしていたので丁度よかった。



 静かな暗い海の、久しぶりの潜水で、
予想通り最初の耳抜きに苦労し、緊張しながら潜行する。
それが20mの海底で状況は一転する。
色とりどりのサンゴ、イソバナ類にチョウチョウウオ類、
フエダイの群れなどが動き、色めきを添える。



大物の群れはないが、色彩と種類の多さには驚いてしまう。
そして海流とともに、生物は祭りのように踊りだす。
決して大物ではないが、1種類づづ目の前に飛び出してくる。
ネムリブカ、リーフシャーク、海ガメ、数百kgありそうなシャコガイ。









海ガメは口がとがっているのでタイマイと思われるが、
捕食中で触れる距離まで逃げなかった。
地形の入り組んだ谷もあり、高山植物が咲き乱れる谷間から、
タヌキやクマが出てきたような賑やかさだ。



 午後からは、雨も降りゲロンインサイドのポイントだった。
カサゴ、クマノミ、擬態のタコ、カエルアンコウ、など小さく見れば見るほど
生命が凝縮し、お互いに反応し、連鎖している姿がみえる。





 このスポットは大物のブルーコーナー、景観のブルーホール、
マンタの乱舞するジャーマンチャンネルとは趣を異にするが、
パラオの海の環境を詰め込んだような、賑やかな海であった。
こんなコンデションでも、十分その魅力に出会えたが、
晴れた時にもう一度訪れたいポイントである。

 オニヒトデも見られず、白化現象でダメージを受けたサンゴも、
かなり回復しているように感じる。
今でも、世界屈指のダイビングスポットであることには変わりなく、
世界中のダイバーが集まる魅力の海である。

しかし、13年前に見たサンゴの花畑には、戻れないかもしれない。
  


Posted by Katzu at 08:03Comments(0)海の環境

2011年10月06日

緑の海パラオ松島

 沖縄の版画家・名嘉睦稔が対談で、海と山は表裏一体だと語っていた。
これは同感で海を知れば知るほど山の存在を感じるようになる。



 日本人がパラオ松島とよぶIWAYANA BAYは、コロール島の南にある。
大小30余りのロックアイランド群が奇景観を構成する。
浅瀬と淀んだ水のためダイビングに来る人は少ない。
ところが、ここはパラオの自然環境を閉じ込めたような水域なのである。
コロールに住んでいると、排気ガスや騒音、ごみの異臭もあり、
外はマングローブのため意外に海の存在を感じない。
マングローブは干潮時は泥臭く、廃棄物も目立つ。



 海からコロールの街を眺める。
すると1万人の人間が暮らしているとは思えないほど、緑の森が広がっている。
マングローブの林を海からカヤックで進むと、
ひんやりし、時々実の落ちる音が聞こえる。
水は泥で濁っているが、海と街の間のクッションとなり、
街の汚れを自浄していると感じる。
林はカニや貝類トビハゼ類ワニなどが住む、独特の生態系を形成する。



 南の湾内に行くに従い、藻が増え、海底の砂も白くなり海の色も変わっていく。
島だけでなく海も緑一色の異空間が現れる。
海も山も一体となった緑の空間。
ここは海山が一緒に呼吸する生きた自然環境で、
自分だけの体が浮いてだんだん溶け込んでいくような錯覚に陥る。



海に潜ると、昨日まで降った雨のせいか、表面は汽水帯になって塩分も少ない。
この汽水帯が地上の養分も運び、植物やプランクトンの栄養となる。
ロックアイランドは石灰岩質であるが、長い年月の末に下部が塩分で溶解している。
ここは幼魚が育ち自然に守られる、安全地帯である。
タイマイが顔を上げると、急速に潜行して行った。



ここには太古の歴史の鍾乳洞があり、石筍が発達している。
個人的にここを緑の洞窟と名付けた。




 さらに、南の湾口に近づくに従い、海の色は青が強くなり、
透明度も増しサンゴが多くなる。サンゴは呼吸しCO2を排出するが、
炭酸カルシウムを蓄え結果として、海藻とともにCO2を吸収する。
この付近は海藻を主食にするジュゴンが、何度か見られたと言う。

 さらに数キロ南、マラカル島の南の側では海流も早く、
サンゴがよく育つ海域になる。
1998年のサンゴの世界的な白化現象でパラオも、2/3のサンゴが
死滅したと言われているが、除々に回復している。
せいぜい水深3mほどの瀬にエダサンゴ、テーブルサンゴが多く、
小さなスズメダイ、ツノダシ、クマノミなどがカラフルに群れていた。



 IWAYANA BAY付近は都市の近郊にありながら、
コンパクトに自然の循環が保たれた、貴重な保護区域になっている。
この日この海域にいたのは、4人だけだった。
カヤックの目線で見ると、茶色の海、緑の海、青の海の変化が、
色だけでなく、水の匂い、温度、味が変化するのがわかる。

この海域に関連して仕事をする、若い上杉さん、佐藤さんに
ここの環境教育を任せたい。

  


Posted by Katzu at 05:06Comments(0)海の環境

2011年10月05日

パラオの都市環境

 パラオは車社会である。
その中心都市コロールは人口12,000人に対し車所有7,000台、
国道は1日に20,000台の車が通行する。
公共交通機関はなく、路肩が狭く自転車も少ない。
歩道は1mと狭いに係わらず、1車線中央に右折レーンが全線にわたっている。
車利用率が80%以上、平均トリップ長もせいぜい2km程度であろう。
向いの銀行に、車で行く人もいる。
渋滞は1日4回断続的に発生する。
出勤、昼休み、児童送迎、帰宅目的である。

 1年経って大きく変わったのは、経済状況の変化である。
ガソリンが約1.5倍高くなり経済も減速する中、交通状況も少し変ったと
推測していたが、あまり変わっていないようだ。

 観光客の視点でまちを歩き回る。
渋滞はあり、この日は夜になってもノロノロ運転が続いていた。




水はけが悪く、舗装整備されていない街路が多い。
台湾の援助で、市内の道路維持工事が行われ始めた。



バスケットボール大会に駐車している車30台のうち、3台が登録切れだった。

3年前、ロックアイランドの一部を掘削し、強引に開発許可を取り物議を呼んだ
ホテルの建設が、まだ終わっていない。



相変わらず犬は自由に散歩し、追いかけてくる。



歩道が、ビンロウで赤く汚れている。
道路を横切る電線に靴がぶら下がっている。
でも、1年前とぶら下がっている位置と種類が違う。
これは笑える。洗濯干ししているのだろうか。
 


 生活習慣は簡単に変らない。
生活を向上させる、あるいは環境を守る目的で、
お金をかけて道路を造ったり、
MRTを走らせることはできるが、
自分の手でそれを改善する姿勢を持たなければ、
トータルとして改善しない。

 街づくりのポイントは安全、安心、健康、美化を目標にすることが
大切だと伝えてきたつもりだが、それは日本でもパラオでも同じである。
いずれも地道な努力があって実現する。



 コーズウェイを歩き、1年前よりきれになったと感じるが、
いつもゴミ拾いをしている、ある日本人がいることを、
パラオの人はどう感じているのだろうか。

  


Posted by Katzu at 05:38Comments(0)街の環境

2011年10月03日

幻のパラオ焼き レシピ

パラオ焼きについて、問い合わせがあったので
その資料とレシピを紹介します。

幻のパラオ焼きについて 


 かつてパラオには焼き物がありました。それは素焼きの生活土器でした。
アンガウル島や、バベルダオブ島その他の島には今でもその欠けらが存在します。
これらが多く作られた年代は西暦1000~1500年程度と考えられます。
しかし、年代測定では古いもので紀元前1000年のものもあります。

 

 同じく沖縄にもパナリ焼きという幻の焼き物が存在します。
今では作り方も口承でしか伝わってなく、それを再現する為、八重山で研究を
している人がいます。私はアンガウル焼きを西表島に持ちこみ、その感想を
聞きました。その方は色合い、大きさ、厚さがほぼ同じで、同じ材料、製法な
のではないかと驚かれていました。  
                   
 琉球王朝時代には、中国や南洋から宝貝を沖縄に求め交易があったと言われ、
その時に、焼き物の技術が伝わったのかもしれません。その製法は、門外不出で
島人の口承により、いくつかの唄により伝承されました。
『パナリ焼きあよー』と『中筋ヌぬめば節』が残っている歌で、その歌詞の
内容が解明されれば、パナリ焼きは再現されると言われています。

 

 島の粘土はカルシウムの多い砂質分を含むため、そのつなぎに鍵があります。
接着剤のない時代に粘性のあるカタツムリを使ったという記述もあり、さらに
表面のヒビ防止にはタブかネナシカズラの溶液、防水のために牛の血を塗った
とも言われています。パラオでは船の防水油に使う、アイスの実を使ったと
推測され、いづれも試しました。    
                          
再生パラオ焼きについて

 材料はすべてパラオ産、製法は窯など専用施設を用いず、ガス、電気等を
使わない露天焼きを想定しました。粘土は陶器が多く発見されている、ガラルド
アイライ、ガスパン州から7箇所の粘性土を試し、最終的にガラルドの法面粘土を
選び、つなぎは貝殻、珊瑚粉、ヒビ防止にネナシカズラを用いました。
全体的に、1000年前のパラオで作成可能な、地産地消を目標にしました。 



作り方

 はじめに貝殻、珊瑚粉、粘土を混ぜ込んで行きます。貝殻はカルシウムが解け
空洞化しますが、砂やガラスは釉薬として溶ければ、本焼きにも使われます。
次に、ネネシカズラを擦り、水を加えつなぎとして、ヒビ防止に利用します。
ある程度の硬さができたところで、手こねで整形のち、1週間影干しします。         
 1週間後、七輪で木、炭を燃やし、その上にアルミ箔を敷き作品を置き、
底の開いた空き缶をかぶせます。はじめは、弱火で30分、次にドライヤーで
アルミが燃えるほど燃やし(焼成温度600℃)、徐々に温度を下げて行きます。
この時、灰の中で熟成させると強度が増します。
これで、縄文土器と同じ様な強度、色合いのパラオ焼きが完成します。



 素焼きなので、色合い、強度が一様でなく、焼き方次第で色が変わります。
2000km離れた隣の島同士の歴史の接点は多く、パラオの島々にはまだたくさん
の宝物があります。今はそれを活用できていないだけです。パラオ焼きは
だれでもどこでも作れるので、パラワンも一度挑戦し、パラオオリジナルの作品
を創ってもらいたいものです。   …(パラオ焼き再生プロジェクト)…           


Relic of Palau-ware

Once upon a time in Palau, there was a pottery.
It was unglazed earthenware for living.
Even now, its chips exist in Angaur island, Babeldaob island and other island.
I think these age is from AD.1000 to 1500.

 There was a similar pottery of relic called Panari-ware in Okinawa.
Now, only we can know the method of making it by oral tradition.
In order to revive it, there is who are researching in Iriomote island of Okinawa.
I’ve brought Angaur ware to Iriomote island, and asked her the comment.
She was surprised in whether for tone, size, and thickness to be almost the same,
and to be the same material and a process.

It is told that Okinawa had trade in quest of cowry from China or the south pacific
on Ryukyu dynasty ages.
It may be that the technology of pottery was transferred then.
The process is much-treasured and washanded down by island people’s
oral tradition by some songs,『Panari-yaki-ayo』, Nakasujinu-numeba-fushi』.
If contents of the words are solved, it is said that Panari-ware is reproduced.
Since the clay of island contains a part of sand with much calcium,
the connector is the key.
There is description of having used land-snail which has viscosity
in a time without cement.
Furthermore, they use Machilus thunbergii or the solution of Cuscuta for
surface crack prevention,
And said to have applies the blood of the cow for waterproofing.

Revival of Palau-ware
All materials used the product of Palau and the process assumed the field ware
not usinggas, electricity, etc. not using leased facilities, such as kiln.
I tried seven clay of Ngaraard, Airai, and Ngatpang State in which many potterys
are discovered,
And, finally chose clay in Ngaraard.
On the whole, I aims at the local supply and local consumption which can be
created 1000 yearsago in Palau.

How to make
First, we mix a shell, coral powder, and clay.
Although calcium unties a shell and emptied, sand and glass will be used also
for main baking if it melts as glaze.
Next, we grind Cuscuta, add water and use for crack prevention as a connector.
It mixed until a certain hardness is made, and after kneading by hand and forming,
dry out in the shade for a week.
After drying, some of branch and charcoal are burned with portable clay stove,
a work is placed on it, and put the can the bottom opened.

In the beginning, it burns by low heat for 30 minutes.
Next, it burns, so that aluminum burns with a drier (calcinations temperature
of 600 ℃), and temperature is lowered gradually and it goes.
At this time, if it is made to ripe in ashes, intensity will increase.
Now, Palau ware is completed, it is same intensity and tones as Jomon ware.
Since it was unglazed, tone and intensity are not uniform and color changes
according to how to burn.
There are many points of contact of 2000km away history of next island,
and there is still much treasure in Palau.
It is not only now utilizable.
You can make it also from whom anywhere.
And I want Palauan to challenge once and make the work of Palauan original. 
                                 Palau-Ware Revival Project
  


Posted by Katzu at 08:49Comments(0)パラオ

2011年10月02日

幻のパラオ焼き その後

 独立記念日のイベントがベツレヘムパークで開かれていた。
各州のブースがあり、短時間で、何人もの知人に会えて嬉しかった。
特に自分の関わったこと、関わった人が1年後どうなったか、とても気になっていた。

 パラオは、ミクロネシアの中で一番古い文化を持っている国で、
紀元前の土器や、装飾品が出土している。
1年前、仲間とともに、その土器を再現することを試みていた。
見た目が同じ、八重山のパナリ焼きを参考に、
ようやくその謎が解けた時、日本に帰国することになった。
そして、その作り方を博物館はじめ、何人かのパラオ人にも手渡していた。



 国立博物館のブースではパラオ焼きのワークショップが開かれていた。
台湾人の陶芸家を招き、子供達にパラオの粘土で陶芸を教えていた。
これをまとめていたのが、トライアスロン協会理事のフリダさんだった。
会場では、台湾の粘土も使われていたが、
やっとパラオで良い粘土を見つけたわ、
と見せてくれたのは、まぎれもなく黄色味がかった良質の粘土であった。



 これを電気オーブンで焼き上げるという。
我々素人が試作した物より、大きく生活具として使える陶器が完成していた。
なぜ競技が中止になったか問いただすのも可哀そうだったので、
いつの間にか、焼き物の話になっていた。



 我々が目指していたものとは、少し違うが、
パラオ人自らが自分の伝統を見直し、定着すれば
ストリーボードのような、すばらしい芸術にまで高めることができるだろう。
彼らは日本人同様、真面目で器用である。



そして、これから考古学や文化人類学でも台湾と沖縄、パラオを結ぶ糸が
解き明かされていくことだろう。

 トライアスロンは失速した感があるが、こうして人と人を結びつける思いが、
形になるのを見つけただけで、今回来てよかったと思った。

  


Posted by Katzu at 10:46Comments(0)パラオ

2011年10月01日

パラオの気象変動

 パラオの天気予報は、晴れ時々雨がほとんどである。
一日晴はあるが、一日雨は1年を通して数日である。
スコールのような通り雨が1回はある。
台風のように長時間、風雨が続くことはほとんどない。
パラオの独立記念日は、毎年天気の良い日が続いていた。



 昨日の雨は、昼頃、自転車でコロールに戻った頃、風雨が激しくなり、
夜遅くまで降り続いた。
今朝も同様で、準備をしてオーシャンスイムのあるスコージョーに
行ったが、既に中止になっていた。
昼から断続的に風雨があった。
返し風のようにも思え、前回の沖縄での弱い台風と似た現象であった。



 台風はパラオ近海で誕生する。
しかし衛星写真を見る限り、すでに台風の形態をしている。
パラオに住んでいると、台風の発生を感じる時がある。
一陣の風と雨が、普通の通り雨よりも強く長く、1時間ほど続くことがある。
すると1日後、天気図に台風の表示が現れる。

 日本に豪雨をもたらした前回の台風15号も不思議な台風だった。
パラオで既に雨雲になり、雨が断続的に降ったという。
沖縄方面でゆっくり留まった時は、風雨は弱いが、台風特有の返し風を受け、
風向が定まらなかった。
その後、大量の雨を含んだまま本土に浸水害をもたらした。

 今回の変な雨も、久しぶりにパラオを襲った台風だった可能性がある。
この時期の台風は放物線を描き、日本近海に到達するが、
今回は西に向った模様である。



 2日前大潮の早朝にMドッグに行ったが、高潮がドッグを越えていた。
2年前にも調査してみたが、この現象は5年ほど前から始まったという。
三陸の被災地の港を思い出す光景である。



世界中の気象は、今までの常識が通じない段階に来ている。


  


Posted by Katzu at 01:47Comments(0)海の環境