2012年09月18日

辿り着いた仏教都

辿り着いた仏教都

 大乗仏教は北インドから中国、モンゴル、日本に伝わった。
他方で、ボロブドゥール寺院は、南インドから伝わった大乗仏教
により建立されたと言われる。
シュリーヴィジャヤ王朝は、5世紀から10世紀にかけ
マレー、ジャワまでを勢力下に治めた一大勢力であったが、
この寺院はジャワ中部を治めたシャイレーンドラ朝が
8~9世紀に建立したと言われる。
その後ヒンドゥー教・イスラム教が席巻したため、
この地が大乗仏教が辿り着いた最終東端と言われている。
北部ルートで日本に辿りつき発達した一方で、赤道を越えてインドネシアに
辿り着いて一大仏教寺院ができたことに、宗教の強靭さを感じる。

辿り着いた仏教都

 ボロブドゥール寺院が遺跡として残ったのは、イギリス人のラッフルズ卿が
再発見・発掘を進めたたものだが、その後オランダが引き継いだあと、
戦後は、日本の資金・技術協力で復元を進めたものである。
そのため、現地の日本語ガイドが数名いるが、
ここに来る観光客の多くは欧米人である。
朝早くから座禅を組んで瞑想する若者もいた。
世界最大の仏教寺院であるにもかかわらず、
仏教徒がいない不思議な光景だった。

辿り着いた仏教都

遺跡は、近年、偶像崇拝を否定する過激なイスラム教徒が侵入し
破壊行為に及んだため、現在も警備員が数名、監視している。
外国人は、高い入場料と腰ミノの着用が義務付けされている。

辿り着いた仏教都

 ボロブドゥール寺院は、底辺が105mで9段の2m幅の回廊があり、
各階段で繋がっている。

辿り着いた仏教都

釈迦の物語のレリーフをすべて見ながら歩いたが、
5km程の延長で1時間以上かかった。
この寺院のデザインは、大日如来の曼荼羅の世界を現したものと言われる。

辿り着いた仏教都

築造は、現況地形を活かし石板石像を組み立てていったものだが、
雨水が石組の基礎を流さないように、遺跡の四方に流路を設け、
像の口から水が流れる仕組みになっていた。

辿り着いた仏教都

 この仏教都の話はここで終わらない。実はこの寺院の形の縦横比率と
同じ遺跡が、さらに海沿い伝わったと言う説がある。
それは、北東に3,000km離れた隣国パラオの人工的なケズと言われる段々山、
さらに北北西に2,000km離れた沖縄の城にそのデザインが似ている。
それを証明する副葬品は出土していないが、このストゥーバから北を望むと、
亜熱帯域までを共有する広大な領域を感じてしまう。

辿り着いた仏教都

辿り着いた仏教都

 この寺院を造ったシャイレーンドラ朝とは、謎の多い王朝で、
広大な海洋国家であったと推測される。
アフリカのマダガスカル島への移民、ベトナムへの侵攻、
唐への朝貢も行っており、アンコールワットの築造にも影響を与えていたという。
パラオのEangという集落も南島からの移民と言われており、
時代背景からすると、この種族だったのかもしれない。
この集落の背後の山も、ボロブドゥール遺跡に似た形状のケズがある。

辿り着いた仏教都

 一方、スリランカから東南アジアに伝わった小乗仏教は、南伝仏教、
上座部仏教とも呼ばれ、タイ、ミャンマー、カンボジアに広まった。
カンボジアでは上座部仏教が主流であるが、アンコールトムは大乗仏教、
アンコールワットはヒンドゥー寺院と複雑な歴史背景がある。
チェンマイとルアンパバンが、上座部仏教が辿り着いた都
ということになるのだろうか。

辿り着いた仏教都

辿り着いた仏教都

日本の宗教解説では、上座部仏教は己の解脱を求めたもので、
大乗仏教は他人の救済を求める教義に基づいたものだと説明されている。
しかし、教義の優劣より、寺院を生活の場とする多くの僧侶や、
毎朝托鉢する住民、子供が興味を持つような仏陀、遊園地のような寺院、
アユタヤに唯一残された釈迦の安らぎの表情、
さとりを開いた最終解脱のポーズの涅槃仏などを見ていくと、
南国らしいおおらかな宗教として、
庶民に愛されていることは紛れもない事実なのである。

辿り着いた仏教都

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Posted by Katzu at 01:43│Comments(0)アジア
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