2012年11月10日

離島の防災計画

 大震災時の離島の救出は、最後になり情報も入らなかった。
ライフラインの復旧は最も遅れ、生活をつなぎとめる困難な状況に陥った。
三陸の島々はリアス海岸の急峻な地形にあり、島も比較的標高がある分、
漁港は壊滅的な被害を受けても、幸い山に逃げた島民も多かったが
救出の遅れが指摘された。

離島の防災計画で特に重要なのは、

1.情報伝達の確立
2.避難ルートと避難場所の確保
3.救援物資の備蓄と輸送
                    の3本柱である。

 街づくりで行うべきことは、交通インフラの整備、避難施設の建設、
建造物の強化、情報サインの表示などがあげられる。
ソフトな取り組みは災害教育、防災訓練、指導員の育成などがあげられる。

離島の防災計画

 多良間島は石垣島と宮古島の中間に位置する孤島である。
最高標高は北側丘陵の32mである。1771年の明和の大津波は
最大18mに達し、島の80%の土地が冠水し、農地は全滅したという。
犠牲者も多かったが、特に北側の水納島は土地が低く全員溺死したという。

多良間島は遺構も島内に多く確認されているが、現存する重要な御嶽や
墓の多くは北側の標高15m地点にあり、明和の津波以降、島の集落は
隣接する塩川・中筋地区に集約されたものと思われる。

離島の防災計画

 塩川の由来は塩分の強い井戸からくると推測される。
宮古島に比べ小さな多良間島は、海水の浸透がある。
津波で残されたのは、運城御嶽、嶺間御嶽、土原ウガム、ウブメーカー、
井戸はアガマーだけで、農地の利用できない数年は、餓死者がでるほど
困窮を極めたことだろう。

離島の防災計画

 今週5日に多良間島で津波防災訓練があった。
地形も位置もわからない観光客が取るべき、退避方法を検証してみる。
病人、老人、子供、観光客、外国人は災害弱者なのである。

1、太陽の位置、高い塔、丘などから、避難すべき方角、高台の場所を想定する。
2、大通りに出て地元の人を探す。
3、人の行動する方向に従って、避難場所に駆け上がる。

 単純であるが、これしか方法はない。

離島の防災計画

 東日本大震災の教訓は、日本全国の防災意識を高めた。
地域の避難場所、避難ルート、位置・高さの表示などが
街づくりに徹底されつつある。

島に着いてすぐ、町役場でヒアリングしていると、
『津波警報が出ました。島民全員の避難をお願いします。これは訓練です。』
とのアナウンスがあった。

離島の防災計画

通りに出ると、街角には職員がこっちこっちと誘導している。
小学生がワーワーと走りながら追い抜いていく。
思えば来週はマラソン大会である。

離島の防災計画

 島内の避難所は3か所あり、北の電波塔が最も高い。
島の中学生は全員で60名ほどだが、そのあとから集まってきた。
小さい子と手をつないでいる子もいる。
兄弟一緒の避難を指導しているようだ。離島ならではの風景で、
小中一貫校であればなおさらだろう。
おばあさんもだれに頼られることなく登ってくる。
都会でこれを行えば、近所の奥さん同士が久しぶりとばかり、
わいわい話しだすところだが、離島のコミュニティは、いざという時に強く、
態度もまじめで参加率も高い。
最後は校長の訓示で終わった。

離島の防災計画

 もう一つの避難所の遠見台に上ると、海に囲まれた島の平坦な土地が小さく感じる。
海の波濤と風が、この島を流してもおかしくないような気がしてくる。
そんな運命を背負う覚悟と、シュンカニの繰り返しが、島の生活の源流にあるのだろう。

離島の防災計画

※多良間シュンカニ: 琉球王府時代、任期を終えた役人が現地の妻子を残し
  旅立つ別れを歌ったものである。


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