2014年03月14日

3年目の3.11

 あの時は雪混じりで夕方のように薄暗く、次の週に沖縄に旅立つ日を待ちわびつつ、
ちょうどこのTi-daブログの初エントリーをしている最中だった。
緩く大きい横揺れの地震が続き、間もなく停電で2日間詳しい情報は得られなかった。
仙台発那覇行きのチケットとともに、その後の予定はキャンセルされた。

 その後、被災地をまわり、都市構造の崩壊を目の当たりにした。
あの時を思い出すと、海水と油と人や魚の匂いが漂い息苦しく、
物以外にカメラを向ける勇気もなかった。
中越地震や能登半島沖地震の直後にも現地に行ったが、被災者が
自宅の再建より、墓の修復を第一に行っていたことが印象に残った。
しかし、今回はその墓石が見当たらない程の惨状であった。

3年目の3.11

それ以来、何かタガが緩んだような喪失感を引きずってきた。
関わった仕事への疑問も、釘がささり答えが見つからない状態で、
自然の中で生かされてきた日本人としての真実を教えられた気がする。

死者・行方不明者が2万人を超え続け、県外避難者が26万人もいる現在、
事業は粛々と進められ復旧過程の工事も多く、まだ総括の状況ではない。

3年目の3.11

 被災地各地では献花台、記帳所が設置され、至る所で道は渋滞していた。
閖上の復興の丘では、弔問客が絶えず現在はきれいに整備されているが、
被災直後は流出家屋が頂上に残されており、瓦礫をかき分けて石碑を見つけた。

3年目の3.11


街の復興状況について、まだ手つかずの宅地に多くの人はその事業の遅さを嘆く。
東北人特有の、語らず耐える特質のためと言う人もいる。

しかし、今回の震災は、戦災復興の東京や地震火災の阪神淡路大震災とも状況は違う。
向かうべき対象も、明確な商業再生というビジョンもない、中央集権国家の負の遺産や
田舎蔑視の歴史を持つ、地方で起きた広域の自然災害であるからである。

3年目の3.11

 現在の選択できる事業の中では、オプションは付帯されても都市開発制度は従来と変わらない。
一般的な区画整理事業では、初動から3年目は測量設計から工事に入る段階なのである。
決して、本来の街づくりのプロセスからはずれているわけではない。
むしろ、天災と言う特殊事情が合意形成の足かせとなっている。

海外のメディアも多く訪れていた。
彼らの視点は、仮設住宅の生活や震災住宅の建設の速さである。
ようやく始まったフィリピンの台風被害の、トタン屋根の仮設住宅建設に比べれば、
先進国としての復旧スピードは脅威に映るのだろう。
生活再建を第一に、街づくりは語る時がその始まりと、あせらず取り組むことが大切である。
被災建築物の保存についても、ようやく語り始められる段階なのである。

3年目の3.11

 一方、各計画については様々な意見が出始めた。
区画整理の未同意だけでなく、高台移転計画の2割が取り止め、高盛土、擁壁の是非、
帰郷意識の低下など、3年と言う月日のなかで変化したものもある。

3年目の3.11

特に、防潮堤計画については異論が多い。
住民が目の前にできる高さが現実的になり、景観阻害、漁業の作業利便性など
住居を選択する条件になるほど深刻なためでもある。
計画すべてを見たわけではないので細部はコメントできないが、
明らかなことは、防潮堤の効果がよくわからないことである。
震災直後、構造物の被災状況を青森から福島まで、確認した技術者はどれだけいただろう。

3年目の3.11

津波の威力も、力の方向も、構造物の弱点になった箇所も、残った構造物も、場所により異なり
津波予知とともに、一律の基準設定など疑わしくなってくる。
100年確率規模の設計と、同規模津波の減災計画というのは、当初の思惑通りで、
今回の津波に全体で耐えうる防潮堤などできない、というのが結論である。
引き波、河川側の回析流などが、弱点であるゲート、避難通路、暗渠などから破壊されていく。

3年目の3.11

知事が引き合いにする被害のなかった普代村の例は、村長の英断もあるが地形的な理由が大きく、
防潮堤の範囲が谷に限定され、田老のような長い防潮堤が必要なかったからである。

3年目の3.11

一方、護岸復旧もままならず、防潮堤計画に基づく宅地整備計画が進まない地区も多い。

3年目の3.11


 被災後の石巻市の県道バイパスでは、分離帯にはまだ車やがれきが残っており、
松の木に、おじいさんの亡骸が引っかかっていたと話す人がいた。

3年目の3.11

現在、木は全部切られてしまったが、減災のためなら時間をかけ、
徐々に土塁石積を積みながら、防災林を育てるのも正しい方法かもしれない。

3年目の3.11

補助金一括の事業なら、一定基準の全体防御は説明も施工計画も立てやすく
即効性もあるが、事業効果の薄い無駄な税金になる可能性もある。

 午後2時46分、石巻市旧北上川河口の日和大橋を渡り終わると、
サイレンと寺の鐘の音が街中に響きわたった。
車列はゆっくりとスピードを落とし、静かに海岸線に止まっていった。
海に向かって一緒に合掌した。

3年目の3.11


タグ :大震災3.11

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Posted by Katzu at 18:45│Comments(0)大震災
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