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Posted by TI-DA at

2017年02月11日

北と南の生活比較

 東北に居て沖縄に戻ると言うと、ほとんどの人は『暖かくて良いですね』という声が返ってくる。沖縄に来ると『大変でしたね。きれいな所で一度行ったことがありますが、とても住めません。』と返答される。
本音、やっかみ、とも取れるが、いつも本土と沖縄の感覚のズレを感じる。

琉球新報の広告に八幡平の樹氷鑑賞ツアーとあり、バンコクツアーの7万円と同じ値段だった。ちょっと高めで、何もこんな時期にと憧れに近いものさえ感じるが、映っていたのは蔵王の樹氷だった。




気温の比較
 沖縄では今年、雪こそ降らないものの、毎日寒風が吹き体感気温は一桁台である。最近1か月の平均気温は名護16.6℃、山形―0.2℃と約17℃の開きがある。この時期は朝に発って夜に着くと大抵20℃の温度差になる。しかし、年平均最高気温は名護25.6℃、山形16.7℃と9℃差があるが、8月平均ではそれぞれ31.6℃、30.4℃とほとんど差がない。

名護に居ると、この時期に薄着で疾走する内地から来るサイクリストやランナーに失笑することはあっても、震えながらゲート前で反対する地元の老人方には敬意を表するばかりで、国政に反対する輩などとは決して口が裂けても言えない。



生活の比較
 北国と南国に分けて、一年を通した生活費を私的に比較してみた。
アパート代、公的な健康保険・年金などは大差ない。食費・雑貨類は、一般的に離島の方が消費者物価は高いと言われているが、全国物価地域差指数では沖縄県が最も低い。同一品目の物価比較では高いが、地物品目、薄着、流通ルートの違いなどがあり、感覚的にも生活費は沖縄の方が断然安い。

その中で最も大きい違いは、水道・電気・ガスの公共料金であった。
マンションと一戸建の違いはあるが、家にいる時間を加味すれば同等の一人住まい条件である。



年間の月平均を計算すると、水道で2倍、電気で6倍、ガスで3倍という驚愕の結果となった。沖縄では沢水を飲用し、自家発電をして、寒暖を我慢していた訳ではないが、エコに対する意識の違いが最も大きい。その差は、施設の古さ、契約基数、電気の熱量差による影響もあるが、それ以上に供給側の単価が高いことに気が付いた。
その水道料金単価は約2倍、ガス料金は同じく約2倍であった。水道は過去の水道計画が原因であることは明白だが、ガスは全国ガス料金比較サイトによると、プロパンと都市ガスの違いを考慮しても全国最低と最高レベルの単価差という返答を受けた。これに暖房の灯油費を入れればその差は歴然となる。

 東北の人間は我慢強く、光熱費は生命にかかわる為、受け入れざるを得ないと長年生活してきた訳であるが、原発事故の経緯もあり、沖縄から見ると、デモをするどころか疑問の声を上げる人さえいないことを不思議に思う。

沖縄は一人当たりの公共投資額は全国平均以上で、路上生活者がいない豊かな島だと言う人もいるが、額面以上に年収が多いとは決して思えない。

その理由はこの写真ですべて説明がつく。




 亜熱帯と温帯の違いは大きい。
自然環境の変化は生活環境だけでなく人々の慣習や性格までも変えてしまう。沖縄ではガラスの割れた窓をガムテープで補修した車をたまに見かける。ヤシの実の落ちる南洋ではよく見かける光景で、大らかというかあまり体裁を重んじない。
山形では穴の開いた車はおろか、バンパーの傷のある車さえあまり見かけない。南洋の人から見れば、よほど潔癖で裕福な人々だと思ってしまう。これをストレスと感じるかどうかの違いは大きい。

国内外のリタイア組の熱い視線を受け、人口も増え続け発展する沖縄ではあるが、その社会増の半数は1~2年で帰っていくというデータもある。
その理由は日増しにわかってくる。



  
タグ :街の環境


Posted by Katzu at 00:18Comments(0)街の環境

2017年01月06日

ダンシャリズム

 年末から家財の整理をしている。数年前から始めていたが中々進まず、家族構成が変わることでようやく本格的に作業が始まった。モノを断ち、モノを捨て、モノから離れる断・捨・離は、ヨガの断行・捨行・離行の思想から来るらしく、その行動の中心は女性である。どうやら女性の方がすべて捨て忘れられるようにできてるようで、むしろ男性の方がウジウジと過去のシガラミやプライドにしばられ、PTSDに罹った男はゴミ屋敷の主人になってしまう。
街のゴミはその街の暗部を凝縮したもので、公園の清掃活動は人とペットと生物の関係を理解することになり、海岸の清掃活動はグローバルな動きを知る最前線となる。




整理の分析
モノの山を見ると、その原因は自分の生産性も節操もない薄利多趣味にあることがわかった。広く浅い知識を必要とする商売から始まったのでまた元に戻ったともいえる。

ジャンル分けから始める。

アウトドア関係は
登山、釣り、ダイビング、スキー、キャンプ、自転車ほかスポーツ関係の用具

インドア関係は、
音響機材、映像機材、楽器、レコードなどの音楽媒体、料理、工学専門書、古銭などのコレクターもの

これらを6畳一間に入れること自体不可能なのであるが、一応目標とした。

整理の対策
1、時代ごとジャンルごと断つ
2、使うかな?価値のない、見ないは捨てる
3、アナログをデジタル化する
4、残ったジャンルごとに棚にまとめる



わかったこと
〇もったいないは時とともに消える
〇アナログ音はデジタル化しても使える
〇同じような写真は見ない
〇捨てると決まった瞬間、モノは命を失うように汚くなる。



〇高価なものはいつのまにか消えている
〇いらぬものはいらぬ

〇捨てる判断よりもゴミ分別が難しい
 カセットテープなどはその最たるもので、もったいないを通り越して、プラスチック、埋め立てゴミ、雑紙の分別作業にヘキレキしてしまう。



 ここまでは早かった。
しかし、断捨離を甘くみてはいけない。
心が虚になるモノは失ってはいけない。
本当の恐ろしさは、モノがヒトの断捨離に移ることである。

 中学生の頃まで古銭のコレクターだった。
小学3年の頃、祖父が亡くなった時に分家を代表して明治時代からの古銭を預かった。
兌換券や銀貨など、戦争の時代の匂いのするものが多かった。
何十枚もある一銭硬貨を年別に並べると、昭和20年に近付くに従い厚みが薄くなることに気付き夏休みの研究にした。



父は中国戦線で古い寺の下から持ち帰った古銭が唯一の戦利品だと言ってくれたのが、大泉五十という西暦10年頃の貨幣だった。日本最古の貨幣が奈良時代の和同開寶だから、その700年も前に造られた古銭を手にし、子供心に中国の恐るべき歴史の古さを感じた。

小学生ながら骨董屋に行くのが楽しくて、コツコツ小銭でコレクションを増やしていった。



ある時、貿易銀が二千円で売られていた。あの当時七万円ほどの価値があり、喜び勇んでお年玉で買ってしまった。帰って調べるとレプリカだった。
女の子にイマジンのレコードを貸したら、なぜかお礼にくれたのが天保通寶だった。



コレクションには戦国時代の永楽通寶はなかったが、江戸時代に流通した寛永通寶も多く、裏に刻まれた波の数と文字で価値が違った。老後の古銭整理の手始めに、穴銭から自分の六文銭を選んで帰るつもりでいたが、その古銭を集めたアルバムが探せなかった。



 失ってしまうと欲しくなるのがヒトもモノも同じで、市内で50年以上営業している古銭ショップの南瞭に行った。代変わりの主人に話を聞くと、古銭の価格は大暴落で価値のあるモノは限られるという。2束3文なら取っておいてというのがコレクターの本心であろう。


片付けの最後の日、最後の最後の段ボール箱の底から、かろうじて古銭アルバム2冊が見つかった。すでに失われたモノもあったが、探し懐かしく見ているうちに、片付ける時間の何十倍もの時がすぎたことに気付いた。それは自分の過去と向き合う時間でもあった。




 断捨離の恐さとは、失ってからでは遅くこうして書き留めておかないと過去の歴史も知識も、時に人のつながりも失うということである。
仏教に帰依する者以外は、せいぜいお掃除テクニックの知恵くらいに留めるべき恐ろしい言葉なのである。


  
タグ :エコ


Posted by Katzu at 17:13Comments(0)エコ

2016年12月31日

来世邂逅の道

 今年歩いた道の風景を思い出す。


 ミャンマー北部幻のハリン遺跡に続く赤く乾いた道


 韓国安東の日韓を巡る桜吹雪の農道


 アマゾンのウォーターワールドと人を結ぶジャングルへの道


 イグアスの悪魔の喉笛に降りる霧雨の舞い上がる遊歩道

と、いくつかの五感を刺激する道を歩いてきた。



 その中で特に脳裏に残ったのは、意外にも地元月山の登山道だった。
今年は一度も山に登っていないと気が付いた9月下旬、初霜が降り既に晩秋の趣きのある弥陀ヶ原から登った。8合目まで車で登れる手軽なコースで登山としては少々物足りなく、8つあるうちの遠い庄内側からの登り口で一度も登ったことがなかった。



出羽三山は西の大峰山に対峙する東の修験道の中心で、観世音菩薩の羽黒山、阿弥陀如来の月山、大日如来の湯殿山、の現在、過去、未来の三世を渡ることを意味する。
天気の良い日は月山を望めることのできる内陸に住んでいて、長い間、森敦の小説にある死の山・月山、生の山・鳥海山の対比の意味がよくわからなかった。



草紅葉の美しい高層湿原である弥陀ヶ原はすでに冬の佇まいで、芭蕉も登った同じ山道を1時間ほど登る途中、月山の頂上を仰ぎ振り返った時、その謎が解けた。声を上げるほどの完ぺきな構図だった。羽黒山に続く稜線に平行して、真北に伸びる登山道の先には、神々しい成層火山の鳥海山があった。



これから向かおうとする死と、過去の生を一瞬見せてくれたような、山岳信仰の風景であった。
頂上の神社にはすでに参拝客はなく、一羽のカラスが神社の守り神のように逃げる気配はなかった。



出羽三山を開山した蜂子皇子は、三本足のヤタガラスに導かれ羽黒山にたどり着いたとされる。




 その2か月前に行ったテオティワカンの死者の道を思い出した。
死者の道を行くと、デルガドの丘を背景にした月のピラミッドがある。その月のピラミッドに登り振り返ると、南の方角には太陽のピラミッドが、その右側に太陽の動きに合わせた方向に死者の道があり、太陽のピラミッドを避けるようにその先にはポポカテペトル山群があった。



テオティワカンの太陽信仰は、生と死を天空を含めた修景に置き換え、太陽神を崇めたと言われる。
メソアメリカのテオティワカン文明と出羽三山の山岳宗教の栄えた時代背景も、標高もほぼ同じ自然条件で、海を隔てて似たような精神世界が作られ、その後の文明から現代の歴史に引き継がれていることが興味深かった。


  


Posted by Katzu at 16:14Comments(0)環境デザイン

2016年12月15日

やんばるの森で起きていること

 やんばるの森に魅かれ何度も通った日から数年が過ぎてしまったが、あの森はどう変わったのだろう。
砂岩質の崩壊土の上に育つのはイタジイ主体の亜熱帯照葉樹林で、ブロッコリーが重なり合ったような広大な樹林帯の景観は独自のものがある。分水嶺を伝い登る高温多湿の空気は、雨となり小河川からマングローブ林を経て海へと流れる。



そこに住まう生物たちは、アマゾンで見た熱帯雨林の密集した猥雑さや先鋭的な躍動感はないものの、独自に生き残った生命は貴重で、ヤンバルクイナやノグチゲラなど世界的にも珍しい固有種が多く生息する。
今年9月に指定されたやんばる国立公園は、おおむね分水嶺から西の区域13,622haで、東側に隣接する米軍の北部訓練場(キャンプ・ゴンサルベス)は含まれていない。




生物の視点から
 鉱物資源の乏しい森は木炭と建築資材の産業主体で、大規模開発のために人の手が入る余地は少なかった。今回指定された国定公園区域は、皮肉にも70年代に縦横に配置された林道開発により、生物の移動が制限される地域に重なっている。



唯一の外来肉食獣であるマングースの捕獲は効果を上げ、最近では山道の捕獲わなに掛かった姿を見たことがない。ヤンバルクイナは生態数が増えており、生息域は山間の林道よりも県道や安田などの集落近くで見かける機会が増えた。幹線林道は風の通り道となり、その影響で枯れた大木にノグチゲラが営巣する姿をよく目にしたが、最近は、むしろ標高の低い高江などの集落近くでも確認されるようになった。

与那覇岳を中心とした国定公園の核心部には、カラスのように幼鳥を捕食する天敵が増え、花や果実に集まる虫の多い人里近い農地や、寸断された沢の県道横断付近に移動していくのは、生物の本能であろう。



 メッシュ調査結果を見ても結果は明らかで、調査対象となっていない高江付近の返還されない米軍北部訓練場付近は、希少生物が増えていることは容易に推測できる。やんばるの生物たちは、森の東側が訓練区域となり開発が西海岸に偏ったことにより、生態の環境が変化したために種族の移動と盛衰を繰り返している。

外来客の視点から
 やんばるの分水嶺を南北に縦断する大国林道は、総延長35.5km、幅員5mの道路構造令上では1車線道路である。現在ここに来るのは、マングースバスターズと湧水採取の人くらいで、対向時は雑草をかすり、車底をするくらいの凹凸や落葉、泥で滑る区間もある。観光客は光陰のヒカゲヒゴのトンネルや延々と繰り返される亜熱帯の景観に日本であることを忘れてしまう。



西海岸の奥間から大国林道に上り、2kmほど林道を歩くと伊湯岳山頂に至る。
この季節は秋の紅葉もなく、黄色いツワブキが咲いている程度である。



鳥の鳴き声もカラスとキジバト、ヒヨドリくらいで森全体の生命感に乏しい。
防衛庁の境界杭の先は林道が続いているが、その先は米軍北部訓練場区域となり高江のやんばるの森の全容が見渡せる。下からヘリの音が聞こえ、戦争と自然という相いれない光景を目の当たりにする。



 現在、やんばるの森を散策できるコースは少ない。
国定公園の東の最奥部にあたる与那覇岳登山路は、セラピーロードとして整備されてから数年がたち、レンタカー利用の観光客も増えた。沖縄リピーター達は、那覇で買い物 ⇒ 世界遺産 ⇒ ちゅら海 ⇒ やんばるの森、の順で訪れるようになる。




湿った森はノグチゲラやアカヒゲ、キノボリトカゲ、イモリ類、陸貝類も見かけ静かで、何度も来たのは不思議に落ち着ける森であるからである。10年ほど前に初めて入ったこの森の印象は、世界のどこにもない国定公園はおろか、いずれ世界遺産になってもおかしくない亜熱帯の森だと感じた。




大国林道を数キロ北上すると、フェンチヂ岳の入口に至る。数分登ると山頂からは伊部岳までの北部訓練場の返還区域が見渡せる。幾重にも重なる山並みは海まで続く広大な空間に驚かされるが、開発される価値のなかった地域であったことも周知の事実である。この森にはやんばる学びの森があり、今後返還されるやんばるの森の魅力を発信する核となる施設になるであろう。




住民の視点から
 県道70号を北上し、ヘリパッド基地が建設中の高江集落に入ると、急に騒々しくなる。ゲート手前で検問があり、にらみ合う反対派住民の間の道路上を輸送ヘリが轟音とともに通り過ぎて行った。数十台の機動隊車両が車線をふさぎ、その先には反対住民の自動車の列が延々と続き入り込む余裕すらなく通り過ぎてしまった。



海外でもこんな厳戒態勢に遭遇したことはない。
機動隊員の薄ら笑いが気になった。
ここは日本ではない。そう、思い出した。
中国雲南省の国境警備の人民武装警察の笑いと同じだ。

 基地の縮小は、どんないきさつと利権関係があろうとも反対する理由はない。同時にそのシワ寄せがすべてこの高江に集中することはどんな理由があろうとも、何者も済まないと同情せずにはいられない。
中国が攻めてくるから米海兵隊が必要というロジックも、反対しているのは住民以外というネタを鵜呑みにするナイチャ―はきらいだ。騒動を大きくし、拡声器で騒々しいだけの、島外からやって来て帰る右と左の人間もきらいだ。というのが市民の本音かもしれない。




来島した当初、国を守りに来たまじめな米兵達に気の毒な気持ちもあり、米軍に対する嫌悪感を露わにする老人に対し時代錯誤だと感じたこともある。
5年間以上沖縄に住んでみて、歴史を顧みて知ったかぶりをしても、自分が島の立場に立って代弁できない大きな壁があることに気が付いた。
それは、戦争が終わって占領軍がそのまま居続け、法外な立場を強いられ暮らしたという経験を共有したことがないという決定的な違いだ。
ナイチャ―の差別と偏見、うちなーの被害者意識と左傾化と、お互い勘違いしてしまう壁を取り除くことは容易ではなく、高度成長時代を知らない次の世代に委ねるべきだろう。



未明、オスプレイが落ちた。
だめなものはだめで、いらないものはいらない。
  


Posted by Katzu at 00:57Comments(0)里山の環境

2016年11月30日

土木と建築の間

 日本の建設の現場は土木と建築に分かれる。ほとんどの理系大学の学科にしても土木と建築のカリキュラムに分かれ、そのいずれにも属さない環境系、デザイン・計画系、社会科学系の学生は街づくりを生業とすることに苦戦している。これは日本の建設システムと会社の業務が土木と建築に大別されているからに他ならない。先進国でもこれだけ緻密に大別されている国も珍しい。



 先日の福岡駅前の陥没現場では、その土木と建築の境が明確に見えた。公共空間の道路が垂直に陥没し埋設物が切断されても、民地側の隣のビルは杭基礎がむき出しになっても自立している。土木構造物と建築物とでは地盤調査も基礎計算もおのおの異なる。被害を最小限にとどめたのは、日本ならではの技術の緻密な構造化が行われた証拠でもある。

一方、都市建設の弱点、特に補助事業の盲点が露呈した。地盤調査の結果、マニュアル通りシールド工法よりナトム工法を選択したのなら、補助事業の場合は選択の余地はなく、とがめられることはないが、ここの設計か現場管理の担当になったと想定すると気が気でない。



地盤調査と地下埋設物と道路2車線分の仮復旧まで10日間、本復旧まで3か月と試算した。恐らく現場では早く埋めろ、と上から罵倒されただろうが、このプロセスがないと後から誰の判断ですぐ埋めたのか問題になる。
現実は市の判断で流動化処理土の大量投入により1週間で復旧させたわけであるが、工事の迅速さよりも大量の固化材の確保ができたことの方が驚きである。ただ、埋めてしまっただけに地下埋設物の基礎工、地下空間と地下水の調査はどうするのだろう。数センチ下がっただけでマスコミに騒がれるのなら、市民には仮復旧なのでモニタリング中だと説明するべきではなかったのか。

多くの土木公共物が既に耐用期間を過ぎ、事故が起こればすぐ蓋をすることを繰り返した結果、街の地下を掘れば得体の知れない構造物が必ず顔を出す、というのが今の日本の都市の姿なのである。




 モニタリングと言えば豊洲新市場。こちらは土木と建築の間の悪い部分が表面化した。
汚染土を入れ替えずに地下空間を指示したのは誰かと犯人捜しになったが、はじめから、コンサルに聞けばわかるのにと思った。技術的な提案はコンサル以外には考えらえない。コンサルには秘匿権があることと、設計の特記仕様書に地下空間のモニタリング検討という文字があるので責任は逃れられる。
担当コンサルは東京の名だたる施設を手掛けてきた建築系のコンサルで、当初は土木系のコンサルから見れば土を甘く見たな、という印象を持った。建築屋としては、地下水位より上に密閉したコンクリート基礎の地下空間を作ることは何ら間違った選択ではない。ただ、地盤改良は整地した土木工事の範疇であり、高潮時の上まで土壌汚染土の影響が及ぶことを安易に解釈し、モニタリングしながら対処する時間すらなかっただけだ。



豊洲の空撮写真を見ると設計担当者の苦悩が痛いほど伝わってくる。土地利用計画は、決められた狭いブロックに多くの機能を凝縮させたような印象を受ける。
特に交通計画などは幹線道路からの取付けを無理矢理、建築物の一部として解釈している。そもそも汚染土対策の課題があるのなら、このスケジュールでは無理だと誰かが身を切って進言すべきだった。

 建設業界の土木と建築の間は、環境面の配慮や歴史の検証がなされ計画されても、トータル的にコントロールできないのは、東日本大震災の復旧や福島原発の汚染対策、オリンピック会場の積算を例にとるまでもなく、その間の壁を隠れ蓑にしてきたためでもある。
そして人々の脳裏から消え去る頃に、モニタリングの結果安全だから、帰っていい、使用していいとあいまいに物事は進んでしまう。




  
タグ :街づくり


Posted by Katzu at 17:00Comments(0)まちづくり

2016年11月05日

これからのシェアリング社会

 あなたは、いずれ自然災害に出会い、国のどこかで紛争が起き、街は老人と外国人ばかりになり、持ち家や道路を維持することも困難になり、年金どころか貯めた円が紙くずとなったらどうしますか?
超ネガティブな質問に思えるが、世界で今起きていること、起きたこと、統計的な事実を冷静に見れば、今の日本の現状ではこのいくつかは現実になるだろう。



明るい未来を信じ、リノベーションで消費を拡大し切り開いていこう。強い向上心を持続すれば大丈夫、とその人は今を乗り切れるかもしれない。しかし、今の社会のシステムではあらゆる格差と国の借金は増え続け、膨張した資本主義は限界を迎えている。既存の経済に対するシェアリング・エコノミーの議論は始まったばかりだが、市民生活レベルで考えても、災害・紛争時の対応やこれからの厳しい生活を乗り切るためのキーワードはこの『シェアリング』にある。
 

〇 ハウスシェアリング

 都会のシェアハウス、ゲストハウスは認知されているが、維持管理の負担増、投機により高騰する宿泊施設という逆の動きには対応できない。街はグローバルに人が流動し、空き家率、生計比指数、貧困ギャップ率が増え、世代により住居費が大きな生活費負担となっている。
片や家や部屋が余る一方、片やそれを借りられない社会のシステムの矛盾。



Airbnbは、もともと『部屋を10ドルで貸してもいいよ。』 『○月○日から1週間借ります。』 といった単純なやりとりで成立する、旅行者に良心的な宿泊サイトであった。(Airbnbサイト)
このサイトビジネスはシェアリング・エコノミィの典型と言われ久しいが、最近は営利目的物件が増え値段が上がり、日本では民泊禁止の縛りが厳しく機能していないばかりか、今や民泊は警察のテロ防止の口実に利用されている。確かに今住む沖縄のマンションには、中国系のオーナーが旅行者を宿泊させており、それが知人なのかビジネスなのかさえ判別がつかない。

日本人同士ならいいかというと、日本にはオープンなハウスシェアリングの歴史も風土も理解もなく育っていない。今の生活は1か月単位で家を空けることも多く、ビジネスではなく、空いた時に一定期間部屋を貸し出すことを模索し始めた。



古民家の物件がでたと言うので見に行った。
琉球古民家は空き家が多いが、神様がいるため親族、門中が売買を許さず賃借も難しい。そこに近くの離島でゲストハウスの一棟貸しをしているオーナーがいた。独立家屋ならではの維持管理や集落の理解などの苦労を聞いたが今では外国人客が増えているという。彼らは家族でなくても旅の途中で、グループでシェアするというスキルを身に着けている。



このような観光やちょい住みにかかわらず、リゾートマンションを共同購入する例は除き、居住目的でシェアリングができないだろうか。新しい都市開発が安い居住を供給してきた時代は過ぎ、ハウスシェアリングの考えとシステムづくりが必要だと痛感する。


〇 カーシェアリング

 都市生活者すべてが同じ利便性をシェアするためには、インフラと公共交通の整備が必要であるが、自家用車は地方生活には欠かせない。自家用車を捨て、日常的に2kmまでは徒歩、10kmまでは自転車、それ以上はバス、長期必要時はマンスリーレンタカー、緊急時はタクシーと近所の大手レンタカーという生活を試みて、健康になったばかりか、年間40万円の節約は海外旅行の交通費と相殺できた。CO2削減という意味では飛行機の移動距離が長い分平均値にとどまるだろう。
さらに、これを進め補完するものはカーシェアリングという結論に至った。



 カーシェアリングはタイムズとオリックスが有名であるが、需要のある都市部を中心に広がっているものの地方には浸透していない。ここで言うのはトータルで安さを感じない今のカーシェアリングビジネスの話でない。
欧米では、スマホで運転手を募るライドシェア(相乗り)が広がっている。その最大手のUberは日本ではまだ東京だけだが、既に全世界に広がり、欧米の主要都市ではタクシーの需要を越えている。(Uberサイト)
日本ではNottecoが有名で、運転手と時間さえ合えば、バスの3分の1、タクシーの15分の1程度の料金でシェアできる。(Nottecoサイト)



自交総連はこれを白タク行為であるとして合法阻止の運動を行っているが、Nottecoでは運転手の本人確認、独自の運転手評価を行っている。しかし、まだ議論も法整備も行われていない。日本では近代まで船以外の公共交通機関がなく、高度成長時代に短期間で自家用車比率が増えたために、車をシェアするという風土が育たなかった。欧米のようにヒッチハイクで旅行することや、東南アジアで白タクと交渉することも、山から下りた林道で車に拾われた経験すらない人も多い。



渋滞の激しいジャカルタでは乗客一人の運転は追加料金が課されるため、料金所の手前で学生が手を挙げ乗り込んでこずかい稼ぎをする。白タクの溢れる街なかにあって、これも庶民のカーシェアリングの知恵である。安全性の理由だけで、環境対策としての輸送のシェアリングも、貧困層が増えているのに規制緩和の低料金化も、限界集落が増えているのにカーシェアリングも行えない国の未来なんて見えてこない。


〇 フードシェアリング 

 フードマイレージとは食べ物の輸送量と距離を掛けた数値で、国内消費以外のCO2排出負荷を示すもので、食料自給率が低く海外からの食糧輸入の多い日本は、世界一フードマイレージが高い国である。
同時に、アメリカの多国籍食品企業ほどあからさまではないが、大量、安価、安定買い付けによるアグリビジネスは、途上国の生活向上に役立つどころか、契約農家は貧困から逃れられない。日本では輸入食料の30%は廃棄されると言われ、食べられるのに捨てられる、いわゆる食品ロスの廃棄量632万トンは、世界の飢餓人口分を救うことができる。
もったいない文化の日本がこんな状況に陥った原因は、業者の納入期限しばり、生ものを好む習慣、腐りかび易い環境などであるが、このうち家庭ゴミが302万トンと最も多い。途上国の貧困と飢餓の代償に、食べ物をいただいているという意識の低さは、宗教観やモラルの問題を越え精神の貧困そのものだと思ってしまう。



近所の移動販売のパン工場では残ったパンを店の脇で安く分けている。販売の手間を考えれば営利はほとんどないが、社長と話をすると、まだおいしいし、豚の餌にはもったいない、という答えが返ってくる。これをシェアできないか、と1年ほど前に近所の自立できない人達に配っていた。ある理由で止めたが、こういった活動は、ビジネスで転売する例があったり悪用さたり、誹謗中傷を受けるとすべてが水泡に帰す。食を提供するリーダーの勇気と良心に頼らざるをえないのが今の社会の暗さでもある。




気が付くと名護市の社協でもフードバンクを始めていた。生鮮食品を除き賞味期限の長い、米や缶詰類が主流である。担当者はまだ少なくて、と謙遜しているが、災害時の食料確保のシミュレーションにも応用できる良いシステムである。
イギリスではスマホアプリで食物を募り、シェアするフードシェアリング運動が始まっている。(OLIO)サイト

仏教の托鉢を忘れ、ドギーバッグの習慣もなく、貧困をシェアする前に金と時間のビジネス社会に突入した日本は、『もったいない』を育てていく余裕がなかった。
シェアリングエコノミーという言葉は誤解されやすく好きではないが、ビジネスと結びつけると価格競争による質の低下により失速する。



ハウスシェアリング、カーシェアリング、フードシェアリングを実現するには、既得権者と対立が起こることはAirbnbやNottecoの例で証明済みであるが、政権が変わっても規制緩和が進んでも実現しない。

日経平均株価を下げず円安を維持するために税金が使われ、借金が増え続けることに何の疑問も持たず、規制緩和が悪徳業者を生んでいく構図は政治批判をしない有権者の問題でもある。
少なくても、これから増え続ける貧困層の若者層や年金世代の老年層が生活するには、暮らしの中にシェアリングの意識が必要となろう。  


Posted by Katzu at 01:06Comments(0)ビジネス環境

2016年10月27日

外国人観光客が変える街



 京都市を訪れる観光客数は年間5864万人(平成27年)、20年で1.5倍になった。このうち宿泊客の20%を外国人が占め、紛れもない世界の観光都市として成長している。一方、これから日本の都市が抱えるであろうグローバル化の課題が、観光先進都市・京都から見えてくる。
海外で日本の観光といえば富士山と京都が圧倒的で、来たいと言う外国の知人にうまく説明も案内もできないことをずっと負い目に感じていた。



 予定の京都国立博物館が改装中だったため、改めて東山を三十三間堂あたりから清水寺、祇園にかけて歩いてみた。その外国人観光客の多さに驚くというより、京都という仮面をかぶった海外の観光地という印象を持った。もともと老舗の京菓子、西陣織、清水焼、ギャラリーなどが多いが、どの界隈も、和洋菓子、和風土産、着物レンタルの店などが軒を埋めている。



五重の塔と町屋を借景にしていることを除けば、民族衣装の着付けと記念写真、食べ歩く観光客の所作は、海外の観光地となんら変わらない。少なくても、慣れない着物で坂道を苦労して歩くアジア人はいても、坂道を健康目的で歩く格好をした人は見かけない。
眺望景観保全と歴史風致関連のあらゆる都市計画規制をかけた街並み保全は成果を上げる一方、住む人のライフスタイルや利用者の変化に対応する規制は追い付かない時代になった。




 祇園の花見小路界隈は、外国人観光客であふれかえっていた。この中をタクシーがクラクションを何度も鳴らしながら通り過ぎる。他の日本の都市にはない東南アジアの喧騒を思い出した。海外の観光地同様に、彼らは車道を石畳のプロムナードと勘違いし道の真ん中を歩く。京都市内は交通渋滞が激しく一方通行も多く、近道に対面通行の花見小路を利用するため周囲の枝道は混雑する。これでは石畳も電柱地中化の意味もない。さらに物理的デバイスを置くか、規制の厳しい歩車共存道路にすべきなのだろう。




 全国どこでも柳と小川の風景の組み合わせが日本の飲屋街のイメージと重なるのは、黄桜のCMのせいでも偶然でもない。戦国時代の都市は川の交通が商業を支えたこと、城外の堀に接する川に面し居住地が広がったためである。内裏から離れ平安京の外縁の鴨川に並行する高瀬川は三面張となった今もその面影を残しているが、刑場のあった三条河原から七条に下ると隠れ家的な居酒屋が集中している。



外国人観光客もちらほら見えるが、彼らの店の選択は国内観光客と明らかに異なる。外国人オーナーも増え、独自の和風感覚の店がネットでは人気を博している。トリップアドバイザーやロンリープラネットのサイトを見るとその特徴が見えてくる。アジア系は爆買い爆食い志向は減りつつ文化体験型へ、欧米系は本物志向から、健康志向、エンターテインメント志向へと店のグローバル化が進んでいる。




外国人観光客に一番人気の伏見稲荷神社は、夕日が落ちても客足は絶えない。キツネが崇められていることも珍しいらしく、稲荷様のまわりには観光客が集まっていた。千本鳥居は一方通行で、確かにどこにもないミステリアスな雰囲気に満ちている。
実はこの神社のことは全く知らなかった。お稲荷様は庶民的なイメージがあるものの、同じ商売繁盛の神様と言えば大阪のえべっさんの方が有名で、京都に生まれ育った従妹でさえ最近行った記憶がないという。



このシュールなオリエンタルデザインを海外の人が教えてくれたわけではあるが、彼らの多くはお稲荷様の写真を撮ることはあっても、特に日本神道を理解しようと努めている訳でもない。彼らが集まるのは24時間入場可能で、拝観料の高いお寺と違い階段で飲食しながら無料で休める空間があるからである。テーマパーク化した千本鳥居は、商売繁盛のお稲荷様らしく、もう通行料を徴収してもいい。




 町家の宿泊はバックパッカー向けドミトリーから、ネオ和風の隠れ家別荘タイプまで価格差は10倍以上ある。そのいずれも海外からネット予約ができ英語対応可能であり、レビューを見る限り平均的に評価は高い。汚い、遠い、予約違いが評価を下げる主原因なのだから日本の宿のサービスとしては当然の結果かもしれない。
七条の和風旅館はパンフレットのイメージとは異なり、案内された屋上の部屋は南洋的開放感に溢れており、そのアンバランスさに思わず苦笑いしてしまった。




 観光地の外国人旅行者の多さに辟易し、七条の町屋を歩いていくと突然道が迂回する異様な耳塚が現れた。朝鮮出兵の戦功の証しとして削いだ耳と鼻を埋めた塚であるが、今でも大切に供養されている。



散歩の道すがら歴史の教科書にでてくる名所がどこにでも登場するのが京都の凄いところだが、この豊国神社界隈は閑散としてなぜか落ち着けた。侵略者である豊臣秀吉を弔った神社には中国・韓国系の旅行者はこない。歴史を振り返り恨みを越え英霊を供養する日本人には異質に思えるが、ブラックツーリズムが浸透していないせいなのかもしれない。




 東本願寺別邸の渉成園は、世界遺産、国宝ばかりの京都にあって観光客の注目度は少ない。外国人旅行者により外壁をスプレーで汚され有名になったが、都市の美観を表すバロメーターでもある落書き対策は、治安監視体制の強化と歴史的威厳の維持と書きにくさの演出にある。



園内には海外のデザイン系の学生がいたが、日本庭園と周囲のビル群のアンバランスさは、最も京都らしい都市庭園と言えるかもしれない。




 京都の街づくりは古い街の再生、とりわけ町家の利用が気になっていたが、ネットで見るとオシャレで観光客受けするものが増え、むしろインバウンドが終わった後はどうなるのか気がかりになるほどである。京町屋の特筆すべき事項は、住民自ら古い町並みに対応した玄関なり、意匠デザインに工夫を凝らしている点である。犬矢来はもともと家壁を犬の小便から守るための外柵であるが、同じデザインのものを屋外工作物のカバーや隣地との外柵にも利用していた。




京都を一日歩いて初めて知ったことも多く、5年間関西に住んでいながら、足元の街をよく見てなかった自分に反省しきりだが、その頃はバブル期の数字を追いかけ追われる日々で、住んだことのない地域の計画をすることの限界を感じた時期でもあった。
亡くなった京都の叔母は、生け花や茶を教え、京文化を海外にも紹介された方であった。
京の街は外国からの観光客が増え、街の様子もお金のシステムも変わり、経済面だけでグローバル化が進んだように勘違いしてしまうが、現実的には多くの文化や芸能を引き継ぐ人と、そこに生活する住民が京の街を支えている。



  


Posted by Katzu at 19:06Comments(0)街の環境

2016年09月09日

進むサンゴの白化と気候変動


     6/7/2016

沖縄に来て6年目、身近で海の変化を見続けてきた。
今年の変化は、春の赤潮とオニヒトデが発生した頃から既にあった。
6月上旬、既に浅瀬のサンゴは1割ほど白化が始まっていた。




夏に入り八重山の石西リーフで9割のサンゴの白化が報じられた。
先週、本島周辺のリーフ内で最もサンゴの発達する瀬底島に行った。



予想した通り、水深3mほどのサンゴは9割近く白化が進んでいた。
いつもと違う海の中の様子は、魚の動きでわかった。
稚魚は群れず、成魚はバラバラに通り過ぎて行った。
まるで、隠れ寝て食する家を失い、あわて戸惑うかのようであった。


     8/24/2016

ここは、本島の浅いリーフ内でテーブルサンゴの群落が見られる数少ないエリアだった。無念と言うより、起こるべき時が来たかという感想に近い。現在もリーフ内の海水温度が30℃近く、このままでは、全世界のサンゴが危機に瀕した1998年、2007年に続き、9年のサイクルでサンゴ礁が壊滅状態となる。


本土では3つの台風が北海道に上陸、東北上陸も観測史上初めてで、沖縄近海でも逆走台風10号、東シナ海の高緯度(北緯25度)での台風13号発生と、まれに見る台風の不可解な動きと豪雨の脅威が現在も続いている。沖縄では例年に比べ接近は少なく、発生数は8月までの平均13.7個とほぼ同数である。



     IRI:ENSO Forecast

この台風の発生も、沖縄近海の海水温の上昇が一因とされる。今年の長期台風予想では、エルニーニョ現象が終息にむかい平常化するため、例年通りの発生と判断された。今年の3月のペルー沖の赤道付近の海水温は高く、日本近海は低くエルニーニョ現象の配置になっていた。


       NOAA:3/3/2016


しかし、7月の海水温は逆にペルー沖の海水温は低く、沖縄近海を含む西太平洋の海水温が上昇した。


NOAA:7/4/2016


今年前半にエルニーニョ現象が終息し、ラニーニョ現象に変わったことが日本近海の台風の発生を助長させたことになる。
同じくエルニーニョがラニーニョに変わったのは、世界的にサンゴの死滅が進んだ1998年だった。





7月上旬、南大西洋では海水温が例年より低く、リオデジャネイロではオリンピック前に50年に一度の寒波が襲った。




アマゾン川流域は近年洪水を繰り返し、最大10m水位が上がり、木々には喫水線の跡が残っていた。




今年は雨量が少なく、例年の5倍の面積の森林火災が発生している。




赤道付近の大西洋からカリブ海にかけては、海水域が高温となりアメリカ東部をハリケーンが襲っている。アジアにおける台風の発生の構図と同じである。



       NOAA:7/4/2016


見かけ上の気候変動のメカニズムは、一地域の海水温が変化することに連動して、空気の流動がコントロールされているような印象さえ受けるが、陸地側の熱帯雨林の減少が影響していることは疑う余地がない。

この5年間は何だったのだろうと振り返る。
9年周期説に立てば、5年後にサンゴ礁が再生し育ち、9年後にまた死滅することになるが、今の状況が続き気候変動が進めば、その頃にはすでに失われている可能性の方が高い。

最近は雨後の海の汚れが気になる。
公共事業が盛んで工事現場からの排水が河川に流れ込むことと、辺野古の埋め立て土のストックとして業者が残土量を増やしているためである。少なくとも、海の生態系を変える人間の行為を進める限りは、気候変動の加速を抑えることはできないだろう。


     台風一過の名護湾
  


Posted by Katzu at 18:47Comments(0)地球環境

2016年08月27日

神々の古代都市をひもとく



メキシコのテオティワカン文明は、紀元前後世紀に隣のマヤ文明とともにメソアメリカ文明の一時代を築き、その後のアステカ文明にも影響を与えた。神々の都市を意味するテオティワカンは、独特の宗教観、自然観に基づいた謎の多い古代の計画都市である。
前日、メキシコシティの国立民族博物館に1日中いたが、テオティワカン文明とマヤ文明を調べ見ただけで、メソアメリカ文明の神秘性と多彩多様な遺跡遺物の数々に圧倒されたばかりだった。





明らかにされない謎の多くは、施設の構造、施設配置、都市の隆盛に関するものである。今までは、宇宙観や死生観、終末論やUFO伝説など、神秘性が強調されてきた面が強く、なぜかハード面からのアプローチがないのが不思議だった。自分ならどういう都市をここに計画するか、という視点で現地に立つと見えてきたものがある。




テオティワカンの圏域人口は、ピラミッド建設の労働力、経済力から想定し、最盛期で10万、あるいは20万人と言われている。



入口付近に居住地跡が発掘、再現されており、この住居クラスターが遺跡の周囲を囲ったと仮定すると、200人/haの人口密度でせいぜい遺跡周辺の人口は3万人程度である。


    再現されたケツァルパパロトルの宮殿

南の入口から入ると、『ケツァコアトルの神殿』があり、北側にはエジプトのギザのピラミッドと同規模の『太陽のピラミッド』があり、さらに奥の正面には『月のピラミッド』がある。




遺跡は幅員40mの『死者の道』と呼ばれる直線道路で結ばれ、南北に2km続いている。南側から北を眺めると、近くの大きな太陽のピラミッドと、遠く小さいはずの月のピラミッドが背後の山を控え、遠景近景が相似に見えるようにバランスよく配置されている。まるで遠近法を考慮した景観手法を想定し計画されたように感じる。




底辺220m、高さ65mの『太陽のピラミッド』に登る。
紫外線が強く乾燥して息が切れるため、高地登山のように感じたが、それもそのはず標高は2300mであった。



遠目にはロックフィルダムの構造のように思われたが、近寄ると表面石は小さく、コンクリート石積にコンクリートパイルの替わりに立石を埋めたような構造になっており、近代まで何度も補修、化粧が行われてきたようである。




このピラミッドの配置を決める『死者の道』の基軸は15度30分、東に傾いている。


 通りには調査のための測量基準点が多く残る。

これほど巨大で複雑な構造物を作り上げる測量技術を持ちながら、この南北軸のズレは長い間、謎とされてきた。しかし最近、太陽が真上に来る日に沈む太陽の位置により、直角軸が決められたと言われている。テオティワカン遺跡は壮大な宇宙を表したと言われているが、月と太陽のピラミッドの位置関係を証明できるものはない。



月のピラミッドに登り、太陽のピラミッドを望む。ほぼ南の太陽のピラミッドの左には、ナワトル語で『煙を吹く山』を意味する聖山『ポポカテペトル山』の山群が見えた。太陽のピラミッドはほぼ南方向にあり、同時に聖山を避ける絶好の位置にあり、もう一つの本当の意味の聖山への死者の道があるように感じた。



『死者の道』には2~3mの壁が何段か行く手をさえぎり、よく見るとプール状になっている。この施設は、用水路説、宗教施設、水面に星座を写す天体観測所、果ては地震予知施設まで様々な研究結果がある。
結論から言うと、底面にある暗渠構造、石積み構造、3段の池の配置から見れば、明らかに調整池機能を持つ配水池である。洪水が起きれば雨水を貯留し、飢饉時に3万人の喉を潤すためには、ちょうど同程度の10万㎥の配水池が必要である。



改めて地形を見ると、この遺跡は北側の山側からの雨水を受け、遺跡の中心から東西南側に傾斜している。テオティワカンを盛土造成したことにより、サンファン川が大きく東側に迂回し西に戻っていることからも伺いしうる。
サンファン川は、従来は現在の死者の道を通っていたものと思われ、テオティワカンを造成した時に、月のピラミッドの下に地下排水路を造り、広場から神秘的な水を演出したのであろう。『死者の道』の地下には、旧河跡か人工の地下排水路が造られているはずである。




都市の隆盛は、人口の増大とともに山林の伐採による裸地化が進み、洪水が煩雑に起こるようになり、雨水調整池の役目を果たすものの、やがて現在のような砂漠化により川は干上がり、配水池の役目もなくなり都市として機能を失い滅んだのではないか。



ケツァルコアトルの神殿は水路の下流にあり、雨乞いの生贄になった白い羽毛のヘビが祭られている。
農業神であるケツァルコアトルの神殿は、その後侵入したトルテカ人により破壊されたとされるが、天水を制御できなくなった神を民自ら葬ったのかもしれない。




後に入植したアステカ人はスペインのコルテスをケツァルコアトルの再来神と勘違いし、彼らを無防備に受け入れ征服され滅亡してしまう。
マヤ文明圏ではこのケツァコアトルにあたるのがククルカンで、春分・秋分の日にピラミッドに降臨すると言われる。2012年のマヤ暦の人類滅亡論で有名になったが、うるう年を考慮してなかったせいで、再計算すると、本当は来週の9月3日にあたるという記事があったが、多くの人はもう信じない。




テオティワカンでは7月25日正午に太陽が真上に来る。その1週間前の7月19日の正午近く、ケツァコアトル神殿にククルカンの降臨と同じヘビの姿に近いものが階段に現れるのではないかと仮定し、待ってみたが階段にヘビの影は現れなかった。




古代遺跡の解析には、幾万もの星を対象にした天文学や幾万もの算式をあてはめた数学的解釈から仮定され、先駆的な知識と紹介されることが多く古代のロマンを感じるが、むしろ現実的な土木や建築のモノづくりの立場から解明できることが多い。




  


Posted by Katzu at 22:54Comments(0)歴史遺産環境

2016年08月23日

イグアスの国境地帯




イグアス川の源流に近いクリチバ周辺は、標高1000m近い丘陵地にあり、アマゾンの密林ともサトウキビ畑とも違うコーヒー栽培に適したテラローシャの大地が広がる。





さらに西に向かうとやがて広大な牧草地に変わり、バスで10時間後にイグアスの国境地帯に着く。
ここは既に、アルゼンチンの広大なパンパのラプラタ流域の一部に属する。




イグアスの滝が自然地理の七不思議と言われる理由は、リオデジャネイロの岩山から続く標高1000m程度の海岸山脈から、大陸内部に行くに従い低くなり、標高200mの大地から一気に100m落下し、河口のブエノスアイレスまで0.006%の低勾配で1500kmを下り大西洋に達する。つまり、大陸の勾配差と滝の落差が同じという、生きた地球の営みがここに集約されているためである。




イグアスの滝を20km下ったイグアス川とプラナ川の合流地点は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの三国国境地点となる。この国境の街はそれぞれフォス・ド・イグアス、プエルト・イグアス、シウダー・デルエステと呼ばれ、それぞれの国境を橋で結んでいる。三国境の例に漏れず、かつては下流のウルグアイを含め南米の火薬庫と言われた紛争地であったが、現在、国境の緊張感は全く感じられない。滝により国境が移動することもなく、下流の合流地点は狭窄谷となり小さな貨物船が行きかっていた。

   
      アルゼンチン側から 合流地点

ブラジル側のフォス・ド・イグアスは観光を主産業にする国際都市であるが、街中は無味乾燥で魅力と活気に乏しい。有色人種が少ない白人の多い土地柄であるためで、リズムのない街がブラジルらしさを打ち消していると思われた。



ホテルや店の警戒するそぶりに、偏見や差別さえ感じたが後日納得した。この街は青少年の殺人犯罪発生率はブラジル一で、特にパラグアイからの犯罪者や麻薬がらみの事件が多く、アルゼンチン側からは政治亡命者などの入国ルートとなっている。通り過ぎる観光客には知られず、世界の観光地と言えども国境地帯の都市はどこも危険度リスクが高い。




市内からバスで1時間、イグアス滝の公園に到着する。ブラジル側からは滝全体が見渡せる視点場があることと、遊歩道が整備され滝近くまで歩いて近づけることがポイントである。滝は横幅が2.7kmもあり、そのほとんどが『悪魔の喉笛』という亀裂に轟音とともに吸い込まれる。その様は、天下無比の壮観という言葉に尽きる。多くの人がブラジル観光の目玉として推薦するのも理解できたが、ほとんどの観光客は飛行機で来て2時間ほど見てせいぜい1泊して帰ってしまう。




翌日、バスでアルゼンチン側に入国する。
プエルト・イグアスはどこにでもあるアルゼンチンの田舎町で、街は静かでブラジル側よりのどかである。



イグアスの滝をじっくり見るには下流側のアルゼンチン側の方が良い。




観光列車もあり、遊歩道は5kmくらいあり半日はかかる。



滝の上は亜熱帯の樹林帯で、植生は沖縄のやんばるに似ている。



100m川底に降りると霧雨で寒く、植物も小さく日本本土の渓谷と同じくキノコやシダ類が多い。




国立公園内で目を引く珍しい動物は多く、サル、鳥類を始め、アライグマ科のハナグマが生息している。

興味深いのは、両国でその対応策と動物の性格が異なることである。



ブラジル側ではカフェテリアに来るハナグマは凶暴で、席に上がり食物を食べるので、追い返すためのマラカスが各席にあり、専門の人がモップで追い掛け回す。ハナグマの刺傷例も多く感染症もあり注意を呼びかけているが、公園内で何度も悲鳴を聞いた。



アルゼンチン側では客はエサを与え、アナグマもなぜかおとなしく感じる。
自然環境が変わらずとも、人間の環境が野生生物を変えること、たった200mとは言え国境を越えた人種の違いなど興味深い対比ができる。


イグアスの語源は先住民族のグァラニー語で『大いなる水』を意味する。降水量の多い1,2月は迫力がある一方泥の濁流となり、きっと洪水の災害現場を思い出すだろう。冬期は天気も安定し、流れ入る上流の川も澄み滝が白く輝く、この6,7月がベストシーズンであろう。




イグアス川は年々水位差が激しくなり、今年は少ない方だという。しかし、この渇水期でさえこの水量であり、上流のダムで排水制限が起きるような時は、アルゼンチンの穀倉地帯のパンパが干ばつの危機にある事態である。



  


Posted by Katzu at 22:06Comments(0)地球環境

2016年08月07日

ブラジルのサクラ



日系社会の象徴であるサンパウロのリベルダージ駅に来るとなぜか安心する。世界最大の日系社会が地球の裏側に存在するのは、不可逆的な必然性によるものではない。単に移住先がその地だったという訳ではなく、ブラジルという新しい国の歴史や気候や文化が日本人を受け入れる素地があり、日本人も親近感を抱きつつ、新しい夢を抱かさせる何かがこの国にはある。




リベルダージには、東北や九州の各県人会事務所が点在している。


     32年前のリベルダージ駅前

かつて、駅前の映画館隣に山形県人会があったが既になく、沖縄県人会事務所に行って新しい場所を聞き、日系社会の行事とサクラに関する情報を得ようとした。事務所は日本フェスの準備で忙しく詳しく聞けなかったが、専門の事務員が常駐し町内会と同じようなそのコミュニティの強さに驚いてしまった。




7月7日、リベルダージ駅前に赤い花が咲いていた。
沖縄の11月に咲くトックリキワタによく似た花だった。パイネイラはブラジル桜とも呼ばれ、トックリキワタと同種である。沖縄のトックリキワタはボリビア産を移入したものなので、少し種類がちがうのかもしれない。



沖縄ではトックリキワタの花が終わると1月末にヒカンザクラが咲く。
サンパウロの桜祭りは8月5日、開花までには1か月近くあった。ということは、ブラジルのヒカンザクラ前線は、南半球なので沖縄とは逆に北に移動するため、今は南で咲いているはず、と予想できた。




サンパウロから南西へ300km。70年代、南半球の計画都市として紹介されたクリチバ市は、用途別の高度制限や都市交通の歩車分離を実現した新しい都市として教科書にも載っていた。特にBRTシステムは先駆的で、観光客にもわかりやすい乗降場は現在もその利便性は高い。




しかし、郊外の住宅地が現れ、中心市街地の用途が混在し始め、商店街が疲弊し始める。30年の年月は交通の質を変えた。自転車が高速化し、それに対応するレーンが少ないことと、キックボードという新しい交通カルチャーが若者に生まれたことである。



一方、旧市街地と新市街地との間には多彩な機能の公園があり、すでに街の景観に溶け込んでいる。街の石畳みのプロムナードは、小洒落た桜並木になり、多くの人が足を止めていた。




花を繁々見ているとボランティアが近寄り、さらに美しい桜並木が郊外の公園にあることを教えてくれた。



植物園公園は、計画的な都市公園としては恐らく南米一の質であろう。多くの市民が訪れており、広い芝生広場と植物園を結ぶ桜並木は満開であった。




桜前線を予想した通り、この花は沖縄のヒカンザクラ、もしくはそれに近い種類である。南米へのサクラの移入は大正時代から始まった記録があるが、ソメイヨシノは根づかず、沖縄のカンヒザクラが広がったと言われている。



沖縄の緯度とほぼ同緯度のクリチバ市には、沖縄の1月の冬の開花から、半年かけ赤道を越え、南半球の冬の7月に到達したことになる。そして、ブラジル各地のサクラは、日系移民が郷愁に駆られ植えられたものであることに疑いの余地はない。



ブラジルの歌のキーワードはサウダージ(悲しみ)であるが、その意味するものは郷愁、思い出といった感傷の意味合いを持つ。30年以上の時が経ち街の景観に溶け込んだサクラと、日系社会の歴史を対比すると感慨深いものがある。


        リベルダージ大阪橋

オリンピックの開幕式でブラジルの歴史が演出されたが、ブラジルの人種の多種多様性を代表する移民として、アラブ商人と日系移民が表現されていた。戦争と平和という意味もあるが、誇らしくも嬉しい気分になったが、地元の日系の方は複雑な想いがあることも知っている。

リオデジャネイロにヒカンザクラがあるとすれば、今頃はちょうど満開になっている頃だろう。



       リベルダージ日本庭園  


Posted by Katzu at 18:57Comments(0)街の環境

2016年08月03日

ファヴェーラのまちづくり



リオデジャネイロの景観は、世界三大美港といわれる港とそれに続く砂浜、大都会と岩山との織りなす他に例を見ないコントラストにある。平坦な市街地は意外と少なく、背後にすぐ山が迫る。



その斜面を這うようにファヴェーラと呼ばれる貧困層の集落が、必ず市街地に連担して形成されている。


       Santa Marta

観光地のレブロン、コパカバーナやイパネマでさえ、背後にはファヴェーラの斜面住宅地があり、その数はリオ市内に1000以上あると言われる。


       Santa Marta

ブラジルの2010年国勢調査ベースで見ると、リオ市の人口6,323,037人のうち、ファヴェーラの人口は22%の140万人と推定される。さらに市街地の人口増加率3.4%に対しファヴェーラの人口は10年間で27.65%増加している。
ファヴェーラの歴史は、奴隷解放により都市部に流入した黒人貧困層が、自分達で築いたコミュニティがその始まりとされる。リオのイメージは、映画『黒いオルフェ』の影響もあるが、陽が落ちると山手に灯りがともりサンバが聞こえてくる情景が思い浮かぶ。



ファヴェーラはいわゆる食べることもままならない貧民窟でも、他者を排除する黒人コミュニテイでも、日本にあるような被差別集落でもない。街には水道も電気も入り、今では若者の9割がインターネットにアクセスし、肌の色の区別なく多くの住民が下界の都会に通勤している。性格的には、地価の高騰した都市部に生活できない低所得者層が集まった集落なのである。



ブラジル国民はCPFとう納税証明IDを持つことが義務化されている。持たないと、クレジットも、病院も、定期券も、選挙も、ネット予約さえできない。税金を払わない人間はCPFが持てず、ファヴェーラの地下生活に入るしか道はない。ファヴェーラが無くなるか、安全な街に変わらないのは、依然として麻薬密売組織の利権がこの街を牛耳っているためでもある。



一方、ファヴェーラは多くの誤解と偏見を受けている。特に都市を運営する立場からは、人口の定まらない地区への公共投資、市全体の防犯防災対策、都市開発の足かせとして排除する方向へと向かう。
今までリオ市当局も、集合住宅の建設と賃貸援助、ケーブルなどの公共交通の整備、警備組織の強化が図られ、道路やオリンピック関連の開発による移転を促してきた。



ファヴェーラは住宅と商店の併用が多く、狭い路地にバー、食堂、仕立屋、電機屋、雑貨屋、教会、学校、ホステルなどがある住商混合地区でもある。住民の立場とすれば強制移転や警官による誤射、暴力など都市開発は受け入れがたいものと感じている。


ファベーラ整備は世界で最も難しい街づくりとされる。



7月13日の夕方、ボタファーゴのSanta Martaに行った。
ここはオランダ人のデザイナーによるファヴェーラ・ペインティング・プロジェクトにより、世界のデザインとして紹介された街である。建物のペインティングによる街づくりは、観光ツアーが行われるほど有名になり治安も回復し、国内外から高い評価を受けた。しかし、昨年再び7年ぶりに麻薬組織との銃撃戦があり、また元の街に戻ったと報道された。



コパカバーナのホテルから1kmほど山手に行くとコルコバードのキリストを望む教会があり、ファヴェーラの入口に交番があった。警官に訳を話し入っていいか尋ねると、今から巡回に行くからと、手で、こいと合図された。



夕方の街の様子は、仕事帰りの買い物客や開き始めた居酒屋の準備などで少しあわただしく、よそ者に注ぐ視線は感じない。5m先を行く武装警官二人は、途中で路地に入って行ってしまった。



何度かテレビでも紹介された小さな広場は、さすがにペイントも古くなり、店は閉じ観光地の雰囲気はない。暇そうな若者が二人座って、トラブルを期待するかのように通りを眺めていた。



右手に人の列を見つけ向かうと、そこはケーブルカーの入口であった。登るつもりはなかったが、おばさんが今から暗くなるから行かない方がいい、みたいなことを忠告してくれた。ほんの1時間歩いただけで3回ほど声をかけられた。今日何かあるの?店はまだだけどサッカーを見に集まっちゃって、みたいな意味のことだったと思う。



テレビのファヴェーラの怖く冷たいイメージとは違い、むしろ東京の下町の雰囲気に近い。決して豊かな人達ではないが、下界の華やかだが冷たい観光地にはない田舎に近い人の温もりを感じる街だった。



ファベーラの入口には学校や病院もあり、児童公園が整備されていた。公園には使い古されたツアーの案内図などもあった。




彼らが『ファベーラを芸術で救おう』と始めたプロジェクトはペイントと同じく劣化したのではなく、公園に集まる子供やペットと遊ぶ家族を見ていると、違う形で実を結んでいると感じた。しかも、このファヴェーラはコルコバードの丘から、いつもキリストに見守られている幸運な街なのである。

  


Posted by Katzu at 23:19Comments(0)まちづくり

2016年07月30日

リオオリンピックの構造力学


 
オリンピックに合わせ再開発された港湾地区のマウアー広場。
Museu do Amanhã『明日の博物館』と名付けられたクジラが口を開けたような建物が目を引く。自然エネルギーとして採光するための可動点を持つ鋼構造が特徴であるが、この片持ち式(カンチレバー)が公園のデザインコンセプトでもある。シンプルなデザインベンチが新鮮に映るのは、日本の公園設計では不経済なモノは排除されるという先入観があるためだろうか。



この建物が造られた背景には、日本の技術援助により始められた鉄工業がブラジル産業の象徴となり発展し支えた歴史がある。リオ市はこの4年がかりの建設に70億円かかり、他の都市施設とともに過重投資と批判を浴びている。国家と地方自治体との力関係、建物用途は違うが、当初のキールアーチ構造が廃案となり減額された新国立競技場が、この20倍の1490億円で、いかに高額なものか改めて実感する。



この公園にはVLT CariocaというLRTが運行し始めている。高層ビルを抜け、海をバックにした石畳の広場を低床式の路面電車が横切る風景は、ヨーロッパ的というより、オリンピックを見据えた近未来的な演出と言っていい。日本では柵やシグナルがなければ認可されない。



この1カ月間はまだ試用期間の無料であり市民にも人気であるが、サントス空港と北部バスターミナル間の運行はまだであった。肝心の市内ルートはまだ建設中で、その影響で道路の渋滞は日常的であった。




空港から旧市内までの交通機関はバスが最も安く早く、30年前と変わらないことに気が付いた。新しく整備されたLRT(緑色)、BRT(青色)とMETRO延伸(赤破線)は、市民生活にとって大きな利便性向上につながっているとは思えない。




なぜなら、これらはオリンピック開催を前提とした、新しい開発地のための交通計画であるからである。生活を圧迫されたリオ市民が怒り、デモやストをするのも無理はない。



悲劇的なのは、交通需要の多い空港と市内を結ぶ新しい公共交通がなく、相変わらず北部バスターミナル付近は市内渋滞のボトルネックとなっている点である。ここから空港、ニテロイに至る自動車専用道路を補完する公共交通機関が必要なのである。



このマラカナン地区の北部の山手には、ファベーラがある(黄色部分)。
この再開発不可能な地域を見切り、北部から西側に新たな都市軸を切り開き、さらに治安の悪くなった旧市街地の発展をあきらめたかのような計画なのである。


開幕1か月前でさえどのルートで市内や会場に行ったらいいのかわからなかった。その整備状況の全容が見えてきたのは、開催一週間前の昨日だった。

        リオ総領事館特設ページ 公共交通機関
    
オリンピックのアピールとなったLRTは、三井物産が請負いなんとか開幕前まで間に合わせたが、中国長春客車を使用する地下鉄4号線はまだ試運転中で間に合わないのか、ぶっつけ本番の運転で人々を驚かせる開幕を迎えるのか不透明である。



空港でホームとの段差を調整中だったBRTは、全線が専用レーンではなく、未整備区間は車道を専用車として運行する模様である。



いずれにしても開幕は交通の大混乱が起きるような気がしてくる。コパカバーナの駐車対策、市内の渋滞が空港までつながった場合の対策、市内観光による渋滞と治安の悪化、スト対策。考えたらきりがない。



リオオリンピックの混乱から見えてきたもの。それはオリンピックの経済効果だけで優劣を判断し都市開発を進めると、国と地方自治体の力関係で住民を無視した計画が知らぬ間に進んでしまう矛盾である。

中心市街地の空洞化が始まった50年前の首都移転が、リオの今の姿を運命づけたのかもしれない。

  


Posted by Katzu at 13:14Comments(0)環境デザイン

2016年07月23日

世界の中心

 ブラジルを中心に1か月かけて中南米を歴訪した。
その前の1か月間は準備に時間をかけ、情報をかき集めたが、
出発1週間前になってもルートが決められない状態だった。
その甲斐もあり、結果的には、心配していた健康、治安、金銭面の
トラブルの一切起こらない貴重な経験となった。



JAL便でニューヨークトランジットの10時間、前回行きそびれた
サウスフェリーでスタテン島に行った。
世界中の人と富を集めるマンハッタンは世界経済の中心であるが、
海から眺めると金属的で危うい島に思える。



アマゾン川は延長7,025m、流域700万㎢、流量20.9万㎥/sの
世界最大の河川で、人類の必要とする淡水をこの1河川で潤し、
アマゾン熱帯雨林は地球の三分の一の酸素を供給すると言われる。
一方、地球規模の気候変動と森林開発によって、流域は
すでに二酸化炭素排出源になっているという報告もある。



リオから飛行機でマナウスに向かう。
眼下には豊かな農地が広がりやがて、首都ブラジリアが見えてくる。
鳥の羽を広げた形の印象的な計画都市は、すでに50年が経ち
衛星都市が増え、緑で覆われ外縁部があいまいになっている。



アマゾン流域に入ると開発の爪痕が目立ち始める。
開発の順序は、当初は開発道路を短冊状に伸ばしながら
区画整理のように矩形に囲い、ゾーンごとに整地されていく。

首都移転によるアマゾン開発は誤った計画ではなく、特に日本主導で
行われた鉱山開発による国産鉄工業の育成は、産業全体を牽引し
ブラジルの近代化に貢献してきた。
農業についても同様で、日系移民により作付された柿やミカンなどの
作物は、すでにブラジル語となりブラジル社会に深く浸透している。

問題は、全体の開発量が制御されることなく、開発が進んだことである。
特に食産業主導の農地開発、金山開発が批判の対象となっている。
7年前からJICAがリモートセンシング技術で監視を後押ししてきたが、
むしろ現地の法整備と住民とのコンセンサスの方が急がれる。



ゴム貿易で栄えたマナウスはアマゾン開発の中心都市で、
ここでアマゾン川は黒いネグロ川と黄色いソリモインス川が合流する。



マナウスから水質の違う2流合流地点を過ぎ、マナウスから南に100km
流域の中心にあるロッジに3日間滞在し、周囲のジャングルを探索した。



雨期の最後の時期は水位が上がり、ジャングル全域が水で覆われる。
流れのある川以外、光の届かない水の表面はすべて水藻で覆われる。
まるで草で覆われた閑静な公園のような風景である。
ここ数年は水位が上昇するようになり、多くの動植物が失われた。
多い時は例年より10m上がったと言う。



住居や森の木々には津波の傷跡と同じような喫水線が白く残っている。
床上浸水し退去した家も多く、フローティング式に改造した家もあった。
まるで、地球温暖化が進んだウォーターワールドを見るようだった。




雨季の動物たちは、木に登るか残った土地に残り、出会う機会も多い。
ガイドが川で泳ぐナマケモノを捕まえてきた。



ナマケモノは、セクロピアというパパイヤに似た形の
覚醒作用のある葉を主食とし動きはのろく、寝ていることが多い。
生活形態もユーカリを主食とするコアラに似ている。
セクロピアの木を見つけ森に返す。




昼はクモザル、イグアナ、タランチュラ、弾丸アリ、ピラニア、カワイルカ、
夜はワニを探しに出かけ、危険でも珍しい動物に接することができた。








静かな森に突然、鳥の鳴き声に驚かされることもしばしばで、
深夜ホエザルの鳴き声や虫の音、カエルの鳴き声に包まれ見上げると、
北の地平線にある南十字星から北半球とは逆の形の星座が広がる。




500万種ともいわれる生物に囲まれ星空を眺めていると、
ニューヨークよりアマゾンの方が、世界の中心であると確信した。


マナウスの国立アマゾン研究所は、アマゾンを再現した公園にあり
京大とJICAの共同によるマナティの調査研究が行われている。



  


Posted by Katzu at 01:35Comments(0)地球環境

2016年05月26日

廃墟のまち



地図を前知識なく眺めていくと周囲にそぐわない地形に遭遇する。
大規模開発地だったり、出来損ないの大規模公共施設だったり、
廃墟だったりするわけだが、中には理解できないものもある。
春先寄ったタイ北部ラオス国境のチェンセ-ンはそんな街だった。



市街地の郊外にバイパスが通りその内側にループ状の道路がある。
都市づくりの可能性としては非効率な街区のようでもあるが、
写真は木々に覆われ、公園、緩衝緑地、土塁のようでもある。



チェンセーンは中国雲南とルアンパバーンの中間にあたり
メコン川沿いのプーアール茶の貿易港として栄えた。



現地の土地利用は、コの字型に川を結ぶ水郷と城壁の跡であった。
レンガ造りという点を除いて、見かけは日本の城郭と変わらない。




街は古さを感じない何の変哲もない住商都市と思われたが、
住宅地の片隅の至る所に寺院の廃墟があった。



歴史地区の指定を受け5つの城門、25以上の寺院が確認されており
その多くは廃墟となった経緯もわからず再興する気配もない。
世界遺産になったアユタヤやスコータイに比べ遜色ない巨大な寺院も
あるが修復中で、他の遺跡は閑散として訪れる観光客もいない。



国立チェンセーン博物館でこの都市の歴史を調べたが
何か釈然としないものが残った。それはこの都市が、
中国、ビルマ、ラオス、タイに囲まれた交通の要衝にあり、
攻防が絶えず占領、破壊が繰り返されたためだろう。



14世紀、ランナー王国の首都として栄えたチェンセーンは
王により火を放たれ歴史の表舞台から突然消え去る。
背景には元の侵攻、ビルマ軍の侵攻と統治の歴史があった。
その結果、新しい住民が居住し、住宅地に廃虚が残る街になった。



アユタヤ王朝を滅ぼし清の大軍を撃退したシンビューシンの王都インワ



戦いに明け暮れたビルマ王の都は、現在は巨大門といくつかの
寺院跡を残し、農地以外に人の生活した気配すら感じさせない。



忽然と人が消えた諸行無常のかつてのバビロンである。





韓国慶州の仏国寺は李氏朝鮮時代に仏教弾圧を受け廃墟と化したが、
日韓併合時代に再興が図られ、現在は石窟庵とともに
朝鮮の古い歴史を伝える貴重な世界遺産となっている。


        大正時代


         現在 

石窟は白御影石で、最も精巧に造られた端正な如来像であった。
日韓併合時代、土に埋もれ壁が崩壊した石窟の工事を行ったが、
石像の配置を間違い、排水構造にセメントを使用したために
換気が行き届かなくなり補修が必要になったと説明文にあった。



日本の研究者は、配置は施行前の写真と同じで、終戦時は異常なく
移動展示の際に復元を誤り、再現できなくなったとしている。
その後、再築し補修を繰り返したが、余った多くの石材は
無造作に外に展示してあった。



対面の南山は、多くの寺社や石仏のあるトレッキングエリアであるが
廃仏も多く、ここにも仏教弾圧の歴史が残る。




アジアの廃墟の街は宗教的なものが多く、日本にも廃仏毀釈により
多くの廃寺を生んだ例はあるが、ほとんどの廃墟は放置されることなく
担保された土地は付加価値を生み、新たな土地へ更新されていく。

国内の廃墟の街は、鉱山の閉山により集落が廃棄された例が多い。
東日本大震災の住宅地の適地選定では、高台移転よりも
廃村利用の方が容易いと考えたが、住民はあの厳しい条件下でも
山に戻ることはすでに現実的な選択肢にはなかった。


        宮古市田老鉱山

最近ではバブル時代のニュータウンや大型施設の例があるが、
今後、限界集落として消滅する集落は2000以上あると言われる。


  


Posted by Katzu at 17:08Comments(0)歴史遺産環境

2016年05月07日

暖流と寒流が運んだ仮面



石垣島のアンガマと西表島節祭のオホホと宮古フツが、
黒潮に乗って辿りついたような韓国のグッタルノリ。



韓国安東市の重要無形文化財、河回別神グッ仮面劇
(ハフェマウル グッタルノリ)は、世界遺産の河回村に
12世紀の高麗の時代から村民に伝えられ演じられてきた。



河回村は洛東江が迂回する孤島のような自然環境に形成された集落で
街の形態も沖縄の離島と同じく村の中心から放射状に広がっている。



この劇の特徴は、強い者と弱い者、賢者と愚者、支配者と被支配者、
男と女、自然と超自然の対比で各場面が演じられる。




演じられる役どころは個性豊かだが、南洋の仮面劇や八重山の祭りの
ストーリーと同じ役どころを思い出してしまう。


          石垣島アンガマ

賢者のソンビやヤンバンは石垣島のウシュマイに、守り神のカクシや
ブネは八重山地方の来訪神ミルクに似ている。


         西表島祖納節祭

破戒僧のチェンや屠殺人のぺクチョンは、西表節祭のオホホや
エイサーのチョンダラーと同じく、祭りを盛り上げるトリックスターである。


        西表島星立オホホ


そして、劇中で第一音節が強調される韓国語は、イントネーションと
言葉が独特な宮古フツ(弁)となぜか似ている。

琉球と朝鮮の関係は歴史的に深いつながりがある。
中国を目指す交易船の行先は、黒潮に捕まると渤海湾に向かわず
一旦対馬海流に乗ってしまうと、済州島から朝鮮半島方面に向かう。



これまであまり語られることが少なかったのは、日本に対する
琉朝のお互いの立ち位置がゆらいでしまうからでもある。

最近、沖縄に韓国人旅行客が増えている背景が見えてくる。

他国の文化までをすべて自分がオリジナルと主張する韓国の
知識人は困りものだが、仮面の伝来にどう反論するのだろう。
一方で、神社の鳥居は渡り鳥を迎え収穫を祝う韓国のソッテである
という説は、農業文化の伝播を考えれば十分影響を受けたと思う。


        韓国慶州

沖縄の来訪神は南洋から訪れたものであるが、あまねく太平洋
ばかりか、インドシナ内陸にも同様の仮面や祭りが伝わる。


        ミャンマーヤンゴン

ミャンマー内陸部でも、街なかの祭りに波照間のフサマラと
同じような南洋人の意匠の踊りがあった。


         ミャンマーモンユワ


一方、ロシアから間宮海峡を下るリマン海流は日本海側に至る。
この海域にも海流が多くの生物や漂流物を運んできた。

今年2月、宮古のパーントゥなど日本の『来訪神:仮面・仮装の神々』
の行事8件がユネスコ無形文化財候補となった。




その中の日本海の来訪神は男鹿のナマハゲとともに
遊佐のアマハゲが挙げられた。
秋田の男鹿に対応して、遊佐町には女鹿という集落がある。



この地域全般に伝わるナマハゲ(アマハゲ)の祭りは、
赤面の鬼が主人公であるが、最近、この赤鬼は海で遭難し
山に逃げ隠れたロシア人であるという説が注目されている。




沖合に寒流の流れ込むこの海岸の集落は、
夏の光が輝くまでは閑散として物寂しい。

秋田美人のルーツは白系ロシア人という説は眉唾ものであるが、
この時期美味の厳ついカナガシラを見ていると、海を渡ってきた
ロシア人のナマハゲ説もまんざら嘘ではない気がしてくる。


  


Posted by Katzu at 17:32Comments(0)アジア

2016年04月28日

リング オブ ファイア

熊本地震の起きる2日前、南九州に寄らず先に福岡を発ったが、
沖縄に来る予定の知り合いが被災して他人事ではなくなった。
4月16日、熊本でMg7の地震が発生した翌日には
エクアドルでMg7.8、1週間前にはバヌアツでMg6.7の
地震が起き、その後も群発地震が継続していた。



海外メディアでは、環太平洋火山帯(リング オブ ファイア)が
活発化しており、カリフォルニアでも注意が必要と報じた。
15,000km離れた地点での地震の関連性はないとされるが、
歴史的には地震や噴火が同じ時期に集中する傾向がある。

現在進行中の熊本地震は、中央構造線縁端の日奈久断層帯と
布田川断層帯の交差する箇所で断層帯が動いたためとされる。

北東部と南西部の離れた地域で地震が活性化した一連の地震は、
これまで例のない群発地震が進行しているとされる。
沖縄トラフに続く南西方向には八代海を渡り川内原発が、
中央構造線に続く北東方向には伊方原発がある。



なぜ原発が、大断層の中央構造線沿いとフォッサマグナにぶつかる
阪神から中越地方にかけての断層密集地帯に多く建設されたのか
断層帯の地図を重ね見れば、誰もが疑問に思うはずだ。

用地買収と地元コンセンサスを先行し、適地選定や専門家の意見は
途中からコンサルにまとめさせる発注の仕方は周知の事実である。
専門家の意見が二分されるのは、立場が二分しているにすぎない。

50年も続く廃炉作業は、今から早く始めたほうがいい。

以前から指摘された環太平洋火山帯と連動する活断層帯は、全国的に地震発生の危険度判定がされているが、九州の活断層帯は重要な長期評価の対象でなかった。この活断層は1万年間隔で活動し、過去の活動履歴から推定する地震確率は0%に近かった。活断層の少ない北海道オホーツク側、南東北、北関東、関西内陸、瀬戸内、北陸中部、九州西部は地震が少ない地域とされてきたが、この地方で地震が起きるたびに、地震保険の附帯率だけでなく、地震予知もその都度変化してきた。


         熊本市付近

地震学は基本的に限定的な事象を積み上げていく。
新たな活断層を探しながら、一万年に一度の確率を読み取る科学に
すがるより、起きるかもしれない準備と、起きてからの素早い対応が
大事、と皆同じ結論に行きつく。

今回の地震が長いスパンで見れば東日本大震災の連動とも考えられ
首都直下型地震や南海トラフ地震ばかりが取沙汰されてきたが、
むしろ、歴史家が以前から指摘するのは地震と噴火との関係である。


       主な噴火と地震年表詳細

有史以来の噴火とおおよそMG7以上の地震を年表に羅列して対比してみた。すると、ほとんどの大地震が5年前後の噴火に結びつくことが分かった。専門家は噴火後に地震が起きるという地殻のメカニズムを説くが、歴史的に噴火が先という共通点は全くなかった。さらに地震の起きた近くで噴火するという地域の連動性もなかった。プレート内型と境界型に分ければ細部が関連づけられるものもあるが、リング オブ フャイアの視点に立てば1地点となる。




大震災後、多くの登山者が犠牲となった御嶽山の水蒸気爆発、口之永良部島の水蒸気噴火はあったが、本格的なマグマ噴火は起きていない。
日本人の安全の対象は、身近な海、台地から山へ、そして環太平洋にまで広がっていく。



        被災前

3年前訪れた熊本城は、地元の熱意が伝わるよく整備されたすばらしい公園であった。まだ新しい石垣が気になっていたが、主に古い石垣の方が被災した様子である。死荷重の増加を指摘する人もいるが、築城以来の大地震であることには変わらない。街なかも1日1日確実に元の生活に戻っていくことを願って止まない。

現場は徐々に地震の回数も減りボランティアが集まる体制が整いつつある。今回は地震の特性上、ボランティアに行くタイミングが難しいが、むしろ、政府や行政の対応の遅れの方が気になる。
ただ一つ言えるのは、災害ボランティアとは無償ではなく、自分が災害を受けた時にどうすべきかという経験を貯金することでもある。  


Posted by Katzu at 18:01Comments(0)大震災

2016年04月19日

アジアの桜前線を迎えに


          韓国安東市

日本のソメイヨシノは日本固有種から交配され、サクラの花見は
日本固有の文化であるが、サクラ自体はアジア各地で見られる。




ヒカンザクラはヒマラヤ地方が原産とされ、南中国から台湾、
沖縄・奄美にかけ、広くアジアに生育するとされる。
英語訳でTaiwansakuraと紹介されることもある。
日本で一番早いヒカンザクラの開花は、1月上旬に奄美諸島から
始まり、沖縄本島の那覇まで1か月かけ徐々に南下する。
すると、2月末にアジアのどこかでヒカンザクラ前線に出会う
のではないか、という仮説を立てた。
 
1月30日 名護
名護桜祭りの日は小雨で満開にはならず、花つきも良くなかった。






2月1日 香港
100年に一度の寒波で、空港内でウメの花を見ただけだった。



2月中旬 ミャンマー
平野部は乾季で、赤い花はデイゴ類、ブーゲンビリア類程度で
山岳部でも桜のような花は見られなかった。




2月24日 タイ北部メーサロン
標高1100mの少数民族の村でヒカンザクラによく似た花があった。



ヒカンザクラは、ヒマラヤから標高の高い南中国、タイの山岳域、
気候の似た北部沖縄奄美の亜熱帯全域に広がったと考えられる。





ソメイヨシノはエドヒガン系とオオシマザクラ系の交配種と言われる。
今年は3月19日福岡で開花し、約1か月半かけ北海道まで北上する。


思えばこの7年間、満開のサクラをめでた記憶がなかった。
海外に居たり、桜前線を飛び越えて移動していたためである。
今年はローカル線で南下しサクラ前線を迎えに行った。

3月25日 山形
雪国は肌寒く、山に残雪が残り、ウメとモモの花が咲いていた。




4月4日 新潟高田
日本3大夜桜と言われる高田公園は、すでに8分咲きだった。
高田は平地都市部の積雪深377cmの世界一の記録を持つ。



民地を歩道として提供し、3階の建物へのハシゴや排水溝など
街全体が雪に対し防御する構造をしているが、地球温暖化と
地方都市の疲弊がかつての城下町のイメージを変えつつある。



雪国では最も早い開花で、春を待つ人々の気持ちが
そのまま百万人高田城鑑桜会に託されていた。






4月5日 富山
岩瀬浜の天満神社はちょうど満開の時期を迎えていた。
遠く残雪の残る北アルプス連峰は春霞で曇っていた。




4月5日 金沢
兼六園のサクラは満開で、外国人観光客で大賑わいだった。
しかし、コケに舞い散るサクラ、カキツバタの曲水に流れる花びらの
繊細さと、庭師の思惑に目を止める人は少なかった。





園のコンセプトは四季折々であるが、秋から冬のイメージが強く、
艶やかなサクラは隣の華やかな金沢城のほうがよく映えていた。






4月6日 福井
福井城の堀にはサクラが散り雨に輝いていた。
神社とシダレザクラの対比は長い時が育んだものだ。






4月7日 尾道
交通が発達し観光地化し、港と坂の街のイメージも変わった。



ただ、人の消えた寺の夜桜は一種独特の風情が残っていた。




4月8日 宮島
外国人客がほとんどで、G7外相訪問の直前で警護が厳しかった。
神社から上の参道は桜道となり、鹿が花びらを食べていた。
ソメイヨシノの魅力は散った後の葉ザクラにもある。







4月9日 博多港
開花から3週間経ちすでに葉桜となりツツジの季節を迎えていた。




韓国でもサクラが咲くと言うことを知った。
サクラ前線はすでにソウル付近まで北上しているようだった。

4月10日 釜山
サクラはとうに散っているはずと思われたが、
釜山駅前にはヒカンザクラのような花が咲いていた。
釜山のマチュピチュと称される甘川洞文化村の背後の山裾には、
建物のカラーに合わせ、植樹されたサクラが所々に咲いていた。






4月11日 安東河回村
ローカル線の車窓はサクラが咲く日本の農村風景と変わらない。



釜山から北へ200km、韓国の精神文化の故郷と称される安東は
ちょうどサクラが満開だった。河川敷のサクラ道には
内外の観光客が訪れ、さかんにシャッターを押していた。



見た目には昭和の時代に植えられたソメイヨシノのように思える。
桜の花びらが舞い散る様に歓喜する子供の姿はどこも同じである。
ただ、ここでは父親が木をゆすっていた。




4月13日 慶州
韓国の古都と称される慶州に再び南下する。



仏国寺ではサクラは散りはじめたが、多くの観光客が訪れていた。
どこか日本と雰囲気が違うのは酒宴がないためだろうか。



世界遺産の仏国寺は周囲が整備されて、サクラ以外の多くの花木が
植樹されているが、今から咲くつぼみの花は何なのかわからなかった。




4月13日山形はサクラが満開と聞いた。
桜前線は日本海を渡り、韓国の安東あたりで結びついたことになる。
調べると山形県寒河江市と安東市は友好都市であり、
過去に寒河江側からサクラの苗を贈呈し交流に役立ったとされる。



しかし、サクラを巡る現在の日韓関係は悲しい。
ソメイヨシノは明らかな交配種であり、その起源がヤマザクラでも
コマツオトメでもエドヒガンであってもあまり重要ではない。
ところが韓国ではソメイヨシノは済州島の王桜が起源と思われている。



歴史を紐解くとその真実が見えてくる。
日韓併合時代、韓国には神社とともに多くのソメイヨシノが植えられた。
戦後、サクラは日帝時代の遺物として伐採の危機にあったが、
植物学者の王桜の済州島起源説によりサクラは朝鮮古来のもので
切ってはいけないと住民に説得されたという。
このいきさつが政治利用や偏見やネット上の恰好のネタとなった。



現在、韓国に咲き乱れるサクラが戦前移入されたソメイヨシノか、
その交配種か、王桜の交配種かどうかはわからない。
しかし、ほとんど似た環境に咲くサクラは多種多様であっても、
同じ美しさを持ち、住む人々が愛着を持つ姿は変わらない。

  


Posted by Katzu at 19:40Comments(0)アジア

2016年04月04日

人と環境を切り裂いた戦争



インドシナを回るうちに、多くの人と周囲の環境に関わりはじめると、
どうしても避けては通れない過去の歴史とその足跡に出会う。
大東亜戦争の主戦場になったミャンマー、特にインパール作戦では
戦闘に参加した兵士10万人のうちの約9割が戦死したとも言われ、
未だに遺骨収集が進んでいない地域もある。

日本軍の撤退したルート上には、慰霊碑が数多く残されている。




チンドウィン川の作戦上の集積地となったモンユワ、
その郊外の線路近くに慰霊碑が建てられている。
訪問者もなくゴミに埋もれているとガイドブックにあったが、
以前の写真よりはこれでもきれいに整備されていた。




有名なマンダレーヒルにある慰霊碑は夕日を背景に、近くの
パヤ-の仏様に夕日が当たると、慈愛が注がれるように
感じてしまう高台の一角にある。




慰霊塔が各地に建立されたのは、遺族会の努力の賜物であるが、
ミャンマー側の配慮があってこそ残され維持されてきた。
海外のモニュメント建設に関する問題の多くは権原の帰属にある。
ある土地は宗教に係わらずイスラム系の部族の土地にあるが
特に問題はなく借地していると聞いた。




ミャンマー人にとって田畑を荒らし橋や道路、宮殿、遺跡を壊し、
街は焼かれ、人の命をうばった戦争の記憶は、戦後も日本人に
対する憎悪として残されたという。
そしてその意識が変わっていったのは、かつての日本留学生や
残された日系の人々の真面目で平和的な態度であったという。




大東亜圏の夢と独立を旗印に、同じ仏教徒でもあり当初
日本軍は民衆に迎えられたが、ビルマ僧はその兵士の中に
戦争に参加する僧侶がいることに驚愕したという。





大英帝国の覇権主義と日本軍のファシズムをいち早く読み取ったのは
アウンサン将軍で、敗戦濃厚な日本軍を裏切り独立を勝ち取った彼は、
現在もミャンマーの絶対的な英雄である。
その遺志はやがて長女のスーチー女史に引き継がれた。

日本のおかげで独立し近代化に貢献したと言うのは詭弁で、
人と環境をうばった戦争は、民主化までの道のりを遅らせた。




ミャンマー・タイ国境に近いゴールデントライアングルにも、
古い寺院の隣りには供養塔が建立してあった。
こちらも風光明媚な国境を望む高台にある。



映画の『ビルマの竪琴』で描かれたように、敗残する日本兵の
辿った足跡は、ミャンマー各地からタイ国境地帯に至る。



経済も文化交流も盛んなタイでは、さらに博物館も整備されている。
チェンマイのムーンサ―ン寺院は、兵士の遺留品が展示されていた。
訪問した時は、休みにも関わらず若い僧侶が鍵を開けてくれ、
一緒に回って説明してくれた。



遺留品の多くは生活用品で、時が止まったようでもあるが、
兵隊の姿は今のタイの地には全くそぐわない気がした。



どうしてこんな戦争を起こし狂気に駆られてしまったのか。
問いに対する答えは、したり顔で語られつくすことはない。




  
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Posted by Katzu at 21:16Comments(0)アジア

2016年03月26日

ミャンマーの道をさえぎるもの

日本の道路計画は単純で、将来交通量を予測し、将来すべての
交通が流れるものと仮定し、新規路線を導き出す。
デフレ社会が続こうが、交通量が減ろうが、その多くは維持管理や
機能更新よりも政治的な経済論理で、新しい道路が造られる。



発展途上国ではODA事業で金をつぎ込んでも交通対策をしても
なかなか成果が見えてこないのは、その国の習慣や環境の違いで
日本の計画の理屈が通用しないことが多くあるからだ。
旅行時間の遅れを生みだすもの、特に道路を遮るものを探しだし、
一つづつ原因をつぶしていかなければならない。

ミャンマーで出会った道を遮るものをまとめてみた。

家畜



人以上に牛の横断には特に気を使い停止する。
宗教的な意味もあるが、ぶつかると車両にダメージを受けるからだ。


収穫物



農作業では幹線道路であろうが、生活道路としての利用は煩雑で
道路をふさぎ、道路の機能分担などという考えはない。


荷物搬入



中古の日本車に積載制限以上の荷物を積み、
搬入時の停車ばかりか、走行時に道路に落ちる場合も多い。



人・物の区別がないのは道路だけでなく、舟ではバイクも一緒になる。
物流とパーソントリップを分ける日本の交通計画が成り立たない。


故障車  


 
道路わきの故障車、事故車は多く、車道での故障車も多く見かける。
多くは路側に回避することなく、交差点や橋梁の上でも修理する。
お互い様の慣習という一面もあろうが、致命的な故障の場合が多く、
さらにレッカー移動するシステムもないためである。


まつり

祭りの列は、信号のない交差点でも最も優先される。
特に公安の誘導もなく、運転手はじっと行列をやりすごす。
祭事の多いミャンマーでは日常的に遭遇する。


       マンダレー


村の男児が化粧して出家する賑やかなパレードにも出会った。


        シュエボー


復旧工事



洪水で流された橋や壊れた道路の復旧工事が至る所で見られた。
その多くは人力で砕石を運び、重機の搬入ヤードもなく道路上で
待機するか、仮舗装もない盛土上で砂塵を撒き散らしている。


人馬



横断歩道のない道路横断、車の売り子、バスに駆け寄る乗客、
托鉢の列など、ミャンマーでは悪質な運転は少なく危険な場面は
少ない方だが歩道はすべて商売か駐車のために埋まっている。
軽車両としての馬車、自転車タクシーが車線を防ぐこともある。


検問



少数民族エリアへの入域箇所だけでなく、各所に検問があり、
観光地では入域料の徴収がある。
この頻度はテロのあったタイに入ればさらに増える。

ミャンマー・タイ国境では右と左の交通が切り替わる。
同じ橋の上で入管の歩行者と車が交差し入口は渋滞していた。
軍事政権時代、イギリスの植民政策を払拭させるために無理に
変えた結果で、ASEANのグローバル化を妨げる原因となっている。




慣習を認知し社会的な課題をクリアしなければ、ただ新しい
バイパスを通せばいいという問題ではないことがわかる。
交通施策が失敗すれば、数年後バンコクと同じ状況になってしまう。


  


Posted by Katzu at 19:27Comments(0)アジア